展示
戦没野球人モニュメント・鎮魂の碑
戦後六十年の節目を迎えるにあたり、先の大戦において戦死された中等学校野球・大学野球・社会人野球の選手の方々を慰霊するために制作された「戦没野球人」モニュメント。
また、日本プロ野球草創期にその青春を燃やし、プロ野球の礎を築いて、戦争に散華した選手たちの霊を慰めるために建立された「鎮魂の碑」。
けっして忘れてはならない、日本野球史の一側面です。
戦没野球人モニュメント
「戦没野球人」モニュメントにお名前のある167名の方は、次のような範囲で調査をし、判明した方です。
範囲
中等学校 ・・・・・選抜大会、選手権大会出場者(本大会)
大学 ・・・・・・・リーグ戦出場者(東京六大学野球連盟、東都大学野球連盟、旧関西六大学野球連盟、旧関西学生野球連盟)
社会人 ・・・・・・ 都市対抗野球大会出場者(本大会)
碑文
日中戦争から太平洋戦争と続いた戦火の中
散華された野球人に追悼の意を表し ここに慰霊する
戦後六十年という節目の年に当たり
中等学校野球・大学野球・社会人野球を通し
こよなく野球を愛した方々を「戦没野球人」として
ここに永く名を留める事とする
二〇〇五年十一月
社団法人 日本野球機構
財団法人 日本野球連盟
財団法人 日本学生野球協会
財団法人 野球体育博物館
鎮魂の碑
プロ野球創設時から、大東京の代表、あるいはリーグの指導者として、その目で選手を送り、また、戦死の悲報を受け止めた、セントラル・リーグ鈴木龍二会長(当時)の悲願が、下田コミッショナー(当時)をはじめ、有志各位の協力を得て、1981年4月に旧後楽園球場脇に建立されました。1988年3月に東京ドームの完成にともない現在の場所に移設されました。毎年、8月15日の終戦記念日頃になると、碑の前には季節を飾る花々が献花されます。
鎮魂の副碑(ちんこんのふくひ)
追憶(ついおく)
弟進一は名古屋軍の投手。昭和十八年20勝し、東西対抗にも選ばれた。 召集(しょうしゅう)は十二月一日佐世保海兵団。十九年航空少尉。神風特別攻撃隊、鹿屋神雷隊に配属された。二十年五月十一日正午出撃命令を受けた進一は、白球とグラブを手に戦友と投球。「よし、ストライク10本」そこで、ボールとグラブと”敢闘”(かんとう)と書いた鉢巻(はちまき)を友の手に託して機上の人となった。愛機はそのまま、南に敵艦を求めて飛び去った。「野球がやれたことは幸福であった。忠と孝を貫いた一生であった。二十四歳で死んでも悔いはない。」ボールと共に届けられた遺書にはそうあった。真っ白いボールでキャッチボールをしている時、進一の胸の中には、生もなく死もなかった。
遺族代表 石丸藤吉
この碑の建設にあたり協力したる有志の人々
池田恒雄(ベースボール・マガジン社社長)
石丸藤吉(親和交通社長)
下田武三(日本野球組織コミッショナー)
鈴木龍二(セントラル・リーグ会長)
角屋久次(新潟県県会議員)
保坂 誠(後楽園スタヂアム社長)
昭和五十六年四月
野球殿堂博物館では、戦没された旧制 中等学校野球の選手権大会(夏)、選抜大会(春)の本大会出場者、大学野球のリーグ戦出場者(東京六大学、東都大学、旧 関西六大学、旧 関西学生の各連盟)、都市対抗野球本大会出場者、戦没されたプロ野球選手の情報を、収集しております。
情報をお持ちの方は、下記までご連絡いただきたく、お願いいたします。
〒112-0004 東京都文京区後楽1-3-61
Tel 03-3811-3600 Fax 03-3811-5369
野球殿堂博物館 戦没野球人調査担当 宛
[情報収集を行う範囲]
・上記の範囲の野球選手のうち、戦没された方で、「戦没野球人モニュメント」にお名前が無い方について
・現在、「戦没野球人モニュメント」に、お名前が刻まれている方について
・戦没されたプロ野球選手の方で、「鎮魂の碑」にお名前が無い方について
・現在、「鎮魂の碑」に、お名前が刻まれている方について
- 戦没野球人モニュメントに刻まれた戦没野球人一覧(167名)
- 鎮魂の副碑(ちんこんのふくひ)