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No. | 表彰年 | 表彰区分 | 氏名 | 氏名(かな) | 出身地 | ショートプロフィール | |||||||||||||
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001 | 1959年 | 特別 | 正力 松太郎 | しょうりき まつたろう | 富山県 | 日米野球を成功させ巨人を創設 | 読売新聞社社長として昭和6・9年に米大リーグ選抜軍を招聘。9年の全日本軍を主体に大日本東京野球倶楽部「東京巨人軍」を創設し、11年には日本職業野球連盟発足へと導いた。戦後も(株)日本野球連盟取締役会長として草創期プロ球界を強力にリードした。民間TV放送の先駆者でもあり、プロ野球新時代を築いた。 | 1885年4月11日 | 1969年10月9日 | 東京大学 | |||||||||
002 | 1959年 | 特別 | 平岡 熈 【※「熈」は臣の左がにすい】 | ひらおか ひろし | 東京都 | 我国初の野球チームを結成 | 明治4年アメリカへ留学し、機関車両・機械類製造技術のほかベースボールを修得し同9年に帰国した。工部省鉄道局技師となり新橋停車場構内に仮運動場を設け、用具や規則書を輸入しユニホームを作る等我国初の本格的野球チーム“アスレチックス”新橋倶楽部を組織した。日本の野球の祖。 | 1856年9月17日(旧暦 安政3年8月5日) | 1934年5月6日 | ||||||||||
003 | 1959年 | 特別 | 青井 鉞男 | あおい よきお | 栃木県 | 米チームを破った一高投手 | 1896年第一高等学校野球部投手として初めて外人チームに勝ち、よく後進を指導した。初めて野球規則を邦訳し野球近代化の途を開いた。 | 1872年8月10日 | 1937年9月17日 | 宇都宮中学→一高→東京帝大 | |||||||||
004 | 1959年 | 特別 | 安部 磯雄 | あべ いそお | 福岡県 | 学生野球の父 | 1901年早稲田大学野球部を創設し次いで第一回渡米を敢行す。以来一貫して学生野球の育成に努め「学生野球の父」と仰がれる。 | 1865年3月1日(旧暦 元治2年2月4日) | 1949年2月10日 | 同志社大 | |||||||||
005 | 1959年 | 特別 | 橋戸 信 | はしど しん | 東京都 | 都市対抗野球大会を創設 | 1905年早稲田大学野球部主将として渡米。新技術を導入し「最近野球術」を著した。また全国中等学校野球大会及び全国都市対抗野球大会の実現を企畫推進した。 | 1879年3月10日 | 1936年3月23日 | 青山学院→早稲田大 | |||||||||
006 | 1959年 | 特別 | 押川 清 | おしかわ きよし | 宮城県 | 初のプロチーム「日本運動協会」を創設 | 早稲田大学野球部草創期の選手。後に球界の長老として敬愛される。1920年日本運動協会を結成。プロ野球発生の先駆者となる。 | 1881年1月1日 | 1944年3月18日 | 郁文館中学→早稲田大 | |||||||||
007 | 1959年 | 特別 | 久慈 次郎 | くじ じろう | 岩手県 | 早大・函館オーシャンの名捕手 | 早稲田大学在学中より名捕手として知られ、社会人野球の育成に努めた。1939年球禍に会い札幌球場で42才の生涯を終えた。 | 1898年10月1日 | 1939年8月21日 | 盛岡中学→早稲田大 | 函館オーシャン | ||||||||
008 | 1959年 | 特別 | 沢村 栄治 | さわむら えいじ | 三重県 | 初期プロ野球界不滅の大投手 | 東京ジャイアンツ発足当時の投手。再度の渡米に活躍。1937年日本野球連盟最初の最高殊勲選手に簡抜され、その名声は創生期の象徴として球史を飾る。 | 1917年2月1日 | 1944年12月2日 | 明倫小→京都商業中退 | 巨人(1936~37、40~41、43年) | 右投左打 | 投手 | 通算105試合登板、63勝22敗、554奪三振、防御率1.74 | 最高勝率1回('37春)/最優秀防御率1回('37春)/最多勝利2回('36秋~'37春)/最多奪三振2回('37春~'37秋) | 最優秀選手1回('37春) | ノーヒットノーラン3度('36.9.25、37.5.1、40.7.6) | ||
009 | 1959年 | 特別 | 小野 三千麿 | おの みちまろ | 神奈川県 | 対大リーグ初の勝利投手 | 慶應義塾、三田倶楽部、大阪毎日野球団の投手として活躍。1922年大リーガーを迎えこれを破り日本人初の勝利投手となる。後年運動記者として令名を博した。 | 1897年5月22日 | 1956年2月2日 | 神奈川師範→慶應大 | |||||||||
010 | 1960年 | 競技者 | ヴィクトル スタルヒン | びぃくとる すたるひん | ロシア | プロ野球初の300勝投手 | ロシア生まれ。北海道旭川中学で野球選手となる。強速球とカーブをもって巨人軍(東京ジャイアンツ)の第一次黄金時代の主力投手として活躍した。高橋ユニオンズに在職中日本最初の300勝投手となる。 | 1916年5月4日 | 1957年1月12日 | 旭川中学中退 | 巨人(1936~44年)、パシフィック(46年)、太陽(47年)、金星(48年)、大映(49~53年)、高橋(54年)、トンボ(55年) | 右投右打 | 投手 | 通算586試合登板、303勝176敗、1960奪三振、防御率2.09 | 最高勝率2回('38秋、'40)/最優秀防御率1回('38秋)/最多勝利6回('37秋~'40、'49)/最多奪三振2回('38秋~'39) | 最優秀選手2回('39~'40)/ベストナイン1回(投 '40) | 最多勝利6回獲得※プロ記録/ノーヒットノーラン('37.7.3)/シーズン最多勝利42('39)※プロ記録/通算最多無失点勝利83※プロ記録 | ||
011 | 1960年 | 特別 | 河野 安通志 | こうの あつし | 石川県 | 早大初渡米後ワインドアップ投法を導入 | 1905年早稲田大学投手として渡米、近代的投球術の始祖となる。技術規則に精通。職業野球の先覚者であり球界の指導に生涯をさゝげた。 | 1884年3月11日 | 1946年1月12日 | 横浜商業→明治学院→早稲田大 | |||||||||
012 | 1960年 | 特別 | 桜井 彌一郎 | さくらい やいちろう | 長野県 | 第1回早慶戦勝利投手 | 慶應義塾大学の投手兼強打者として初期早慶試合にチームの中心となり、三田クラブを率いて野球界の元老として敬愛された。 | 1883年12月2日 | 1958年5月17日 | 上田中学→慶應大 | |||||||||
013 | 1960年 | 特別 | 飛田 忠順 | とびた ちゅうじゅん | 茨城県 | 穂洲の名で健筆をふるった早大名監督 | 早稲田大学監督として黄金時代を作り終始学生野球の発展に力をつくし、健筆を用いて野球の鍛練的精神を高唱した。 | 1886年12月1日 | 1965年1月26日 | 水戸中学→早稲田大 | |||||||||
014 | 1962年 | 競技者 | 池田 豊 | いけだ ゆたか | 東京都 | 学生・プロの名審判 | 早稲田大学の名内野手として大正六・七年極東選手権に優勝。卒業後は近代審判技術の体得につとめ、昭和十二年から二十三年まで日本野球連盟審判長として、その向上をはかり明快な審判ぶりを発揮した。(1893年~1952年) | 1893年9月24日 | 1952年10月21日 | 早稲田中学→早稲田大 | 名古屋(1936年) | ||||||||
015 | 1962年 | 特別 | 市岡 忠男 | いちおか ただお | 長野県 | 職業野球連盟初代理事長 | 早稲田大学の主将・捕手として名声高く、後に監督を勤め、昭和6年に行われた日米野球によってわが国に職業野球の機運を作り、昭和十一年日本職業野球連盟創立とともに初代理事長として活躍し、今日の隆盛の道を拓いた功労者である。 | 1891年11月15日 | 1964年6月23日 | 京都商業→早稲田大 | |||||||||
016 | 1963年 | 競技者 | 中島 治康 | なかじま はるやす | 長野県 | プロ野球初の三冠王 | 松本商業。早大を経て東京巨人軍に入り4番打者として豪快な打力を発揮し昭和13年春秋を通算し、打率3割5分3厘、本塁打11本、打点63で最初の三冠王となり、打撃王の名声を高めた。 | 1909月6月28日 | 1987年4月21日 | 松本・中山小→松商学園→早稲田大 | 巨人(1936~43、46~49年)、大洋(50~51年) | 右投右打 | 外野手 | 通算871試合、3296打数、889安打、57本塁打、493打点、打率.270 | 首位打者2回('38春~'38秋)/最多安打3回('38春~'38秋、'42)/本塁打王2回('37春、'38秋)/打点王4回('37秋、'38秋、'40、'42) | 最優秀選手1回('38秋)/ベストナイン1回(外 '40) | 三冠王('38秋) | 巨人(1943、46~47、49年)、大洋(51年) | |
017 | 1964年 | 競技者 | 若林 忠志 | わかばやし ただし | ハワイ | 七色の変化球を投げた頭脳派投手 | 頭脳的投球と変化球により投手としての名声を法政大学および阪神タイガースの優勝によって高め、投手生活20有余年プロ野球人として熱愛の生涯を捧げた。1908~1965 | 1908年3月1日 | 1965年3月5日 | マッキンレー高→本牧中学→法政大 | 川崎コロムビア | タイガース(1936~39年)、阪神(40~44、46~49年)、毎日(50~51、53年) | 右投右打 | 投手 | 通算528試合登板、237勝144敗、1000奪三振、防御率1.99 | 最高勝率2回('39、'44)/最優秀防御率2回('39、'44)/最多勝利1回('44) | 最優秀選手2回('44、'47) | 阪神(1942~44、47~49年)、毎日(53年) | |
018 | 1964年 | 特別 | 宮原 清 | みやはら きよし | 長野県 | 社会人野球協会初代会長 | 明治三十六年早慶野球開始当時の慶大主将。同野球部の発展に盡力し、昭和二十四年初代日本社会人野球協会長として社会人野球の名声を世界に高めた。 | 1882年12月4日 | 1963年10月16日 | 上田中学→慶應大 | |||||||||
019 | 1965年 | 競技者 | 川上 哲治 | かわかみ てつはる | 熊本県 | 打撃の神様、V9達成の巨人監督 | 打撃王として努力精進。十八年間の通算打率3割1分3厘。豪快な打法から放たれる弾丸ライナーは賞賛の的となる。最高殊勲選手三回。首位打者五回(東京巨人軍一塁手)。 | 1920年3月23日 | 2013年10月28日 | 熊本工高 | 巨人(1938~42、46~58年) | 左投左打 | 一塁手 | 通算1979試合、7500打数、2351安打、181本塁打、1319打点、打率.313 | 首位打者5回('39、'41、'51、'53、'55)/最多安打6回('39、'41、'47、'53、'55~'56)/本塁打王2回('40、'48)/打点王3回('39、'41、'55) | 最優秀選手3回('41、'51、'55)/ベストナイン10回(一'40、'47~'49、'51、'53、'55~'58) | サイクル安打('54.7.25)/ゲーム最多三塁打3('39.6.21)※プロ記録/イニング最多本塁打2('48.5.16)※プロ記録/イニング最多塁打8('48.5.16)※プロ記録/シーズン最少三振(300打数以上)6('51)※プロ記録 セ・記録/一塁手・シーズン最多失策20('52)※セ・記録 | 巨人(1961~74年) | |
020 | 1965年 | 競技者 | 鶴岡 一人 | つるおか かずと | 広島県 | 南海黄金時代を築いた名監督 | 法政大学、南海を通じて攻守両全の内野人として独特の風格を発揮し、通算打率2割9分5厘、最高殊勲選手3回、南海監督として名声を高めた。 | 1916年7月27日 | 2000年3月7日 | 広島商業→法政大 | 南海(1939年)、グレートリング(46年)、南海(47~52年) | 右投右打 | 二塁手 | 通算754試合、2681打数、790安打、61本塁打、467打点、打率.295 | 本塁打王1回('39)/打点王1回('46) | 最優秀選手3回('46、'48、'51)/ベストナイン1回(ニ '51) | グレートリング(1946年)、南海(47~68年) | ||
021 | 1965年 | 特別 | 井上 登 | いのうえ のぼり | 千葉県 | 第2代コミッショナー | プロ野球創生時からこれに強い愛着心を持ち、側面から熱心に指導した。最高裁判事退任後、昭和31年から6年間コミッショナーに就任し、明快な裁定を下した。 | 1885年4月10日 | 1971年7月26日 | 東京帝大 | |||||||||
022 | 1965年 | 特別 | 宮武 三郎 | みやたけ さぶろう | 香川県 | 投打に活躍した学生野球のヒーロー | 打力の人として東京六大学黄金時代に慶応の全盛を誇り、神宮球場場外本塁打を放つ。剛速球をもって投手をつとめ、卒業後東京クラブ、阪急の主力打者であった。 | 1907年7月23日 | 1956年12月11日 | 高松商業→慶應大 | 東京倶楽部 | 阪急(1936~38年) | 右投右打 | 一塁手、投手 | 通算157試合、508打数、131安打、9本塁打、78打点、打率.258 | ||||
023 | 1965年 | 特別 | 景浦 将 | かげうら まさる | 愛媛県 | 猛打タイガースの強打者 | 松山商業 立教を経て職業野球創設期に「投」の沢村に対照して、「打」の景浦と並称された長距離打者であった。強肩を利して投手をもつとめ、豪放な性格で人気を集めた。 | 1915年7月20日 | 1945年5月20日 | 松山商業→立教大 | タイガース(1936~39年)、阪神(43年) | 右投右打 | 外野手、投手 | 通算323試合、1134打数、307安打、25本塁打、222打点、打率.271 / 通算56試合登板、27勝9敗、134奪三振、防御率1.57 | 首位打者1回('37秋)/打点王2回('37春、'38春)/最高勝率1回('36秋)/最優秀防御率1回('36秋) | シーズン最高勝率1.000('36秋)※プロ記録/14試合連続得点('38.7.9~9.9) | |||
024 | 1966年 | 特別 | 守山 恒太郎 | もりやま つねたろう | 東京都 | 一高の名サウスポー | 1902年第一高等学校第二次黄金時代の左投手として横浜外人を完封。猛練習にはげみ攻守ともに名声を博した。 | 1880年4月27日 | 1912年2月12日 | 獨協中学→一高→東京帝大 | |||||||||
025 | 1967年 | 特別 | 腰本 寿 | こしもと ひさし | ハワイ | 慶大黄金時代の名監督 | 慶応、大阪毎日球団で内野手、好打者。大正十五年慶大野球部監督となり、慶大黄金時代に七度優勝。早大の飛田監督とともに名監督といわれ渡米4回。選手を大成し、和製マグローと賞讃された。 | 1894年11月3日 | 1935年4月27日 | 慶應普通部→慶應大 | |||||||||
026 | 1968年 | 特別 | 鈴木 惣太郎 | すずき そうたろう | 群馬県 | プロ野球草創期日米野球の交流に尽力 | 青年の頃対米貿易のため渡米中、アメリカ野球の全般にわたり実地に研究を重ね、その豊富な知識によりわが国球界を指導した。正力松太郎氏の大リーグ招聘に努力。更に日本プロ野球創立に盡し長年プロ野球界の要職に歴任した。特に終戦後、進駐軍と折衝して甲子園、西宮、後楽園の軍接収の早期解除に大きな功績を残した。 | 1890年5月4日 | 1982年5月11日 | 前橋高→早稲田大中退→東京経済大→コロンビア大聴講生 | |||||||||
027 | 1968年 | 特別 | 田辺 宗英 | たなべ むねひで | 山梨県 | 後楽園スタヂアム第4代社長 | 小林一三の弟。昭和11年プロ野球創立に引つヾき兄らと共に都心に後楽園スタヂアムを建設し、翌年後楽園野球クラブ(イーグルス)の結成に盡した。その生涯を野球拳闘その他広く一般体育の発展のために捧げた功績は顕著である。 | 1881年12月17日 | 1957年3月18日 | 立教中学→早稲田大 | |||||||||
028 | 1968年 | 特別 | 小林 一三 | こばやし いちぞう | 山梨県 | 宝塚運動協会・阪急球団結成 | 三井銀行を振出しに実業界に入り、昭和2年阪神急行電鉄社長に就任。多年に渡り政財界に活躍し、大きな足跡を残した。大正2年大阪豊中に野球場を設置。大正13年わが国最初のプロ野球芝浦野球協会を引つぎ、宝塚野球協会を結成。昭和11年阪急野球団(阪急ブレーブス)を創立。翌年5月、西宮球場を建設し、わが球界に大いに貢献した。 | 1873年1月3日 | 1957年1月25日 | 慶應大 | |||||||||
029 | 1969年 | 競技者 | 苅田 久徳 | かりた ひさのり | 神奈川県 | 華麗な守備の名二塁手 | 法政大学では名遊撃手として、若林投手らと同大学の黄金時代を築いた。昭和9年巨人軍結成に参加。翌年東京セネタースへ移り二塁手として活躍した。走打にも優れた天分を示したが、その堅実 華麗な守備は抜群で観衆を陶酔させた。選手引退後は、監督、コーチ、審判員を歴任し、斯界に尽した。 | 1911年1月19日 | 2001年8月3日 | 横浜市立寿小→本牧中学→法政大 | 東京倶楽部 | 東京セネタース(1936~39年)、翼(40年)、大洋(41~42年)、大和(42~43年)、東急(47年)、急映(48年)、毎日(50年)、近鉄(50~51年) | 右投右打 | 二塁手 | 通算806試合、2832打数、619安打、37本塁打、202打点、打率.219 | 盗塁王1回('36秋) | 最優秀選手1回('38春)/ベストナイン1回(ニ '40) | 東京セネタース(1937秋~39年)、翼(40年)、大洋(41年)、大和(42~43年)、東急(47年)、急映(48年) | |
030 | 1969年 | 特別 | 三宅 大輔 | みやけ だいすけ | 東京都 | 巨人、阪急の初代監督 | 慶応大学、三田クラブ、東京クラブ等で、名選手として活躍し、復活早慶戦当時の慶大監督、また六大学初の専属審判等、当時球界の指導的役割をつとめた。我国プロ野球誕生に参画し、巨人軍初代監督、続いて阪急の監督に就任した。戦后も各球団の技術指導につくし、野球技に関する多くの書物を著した。 | 1893年4月16日 | 1978年1月3日 | 慶應普通部→慶應大 | 東京倶楽部 | 阪急(1936~37年)、産業(44年) | |||||||
031 | 1969年 | 特別 | 田部 武雄 | たべ たけお | 広島県 | 攻走守揃った天才的プレーヤー | 少年時代から天才的名選手とうたわれ、広陵中学、明治大学で活躍。巨人軍第一回アメリカ遠征に加わり、小躯ながら天与のバネと俊足を利して105試合に110盗塁と云う快記録を樹立、沢村、苅田らと共にアメリカで万丈の気を吐いた。又大学時代、捕手以外の全ポジションをこなす万能選手振りを発揮したことは有名である。 | 1906年3月28日 | 1945年6月 | 広陵中学→明治大 | 大連実業団 | ||||||||
032 | 1969年 | 特別 | 森岡 二朗 | もりおか じろう | 奈良県 | 日本野球連盟初代会長 | 昭和11年、プロ野球創立に参画し、大東京軍副会長として洲崎球場建設に尽力した。16年日本野球連盟初代会長となり、戦時下のきびしい悪条件の下で、プロ野球最高指導者として敏腕を奮い、全球団の運営と秩序維持に尽瘁し、昭和19年プロ野球休止に至るまで軍首脳部と折衝をつづけてその存続につくした。 | 1886年5月30日 | 1950年12月20日 | 四高→東京帝大 | |||||||||
033 | 1969年 | 特別 | 島田 善介 | しまだ ぜんすけ | 栃木県 | 慶大・三田倶楽部名捕手 | 慶応大学時代、名捕手として、対早大、一高戦、海外遠征等で活躍。その無類の強肩による投球は当時の野球界の呼物であった。又大正11年秋、日本チームが初めて米大リーグチームを破った時、小野投手の好投をたすけて見事なホームランを放って、球史に輝かしい一頁を飾った。日本学生野球協会の役員やゴルフ界の世話役としてスポーツ界の発展に寄与した。 | 1888年10月7日 | 1955年1月29日 | 慶應普通部→慶應大 | |||||||||
034 | 1969年 | 特別 | 有馬 頼寧 | ありま よりやす | 東京都 | 東京セネタースを結成 | 貴族院議員、農林大臣、その他政界の指導者としての活躍は有名であるが、文化スポーツにおける造けい深く、昭和10年プロ野球東京セネタースを創立し、西武鉄道と提携して上井草球場を建設した。日本野球連盟、日本野球報国会等の相談役を歴任。日本プロ野球発生当初から戦時中止に至るまで終始その育成発展のため献身した。 | 1884年12月17日 | 1957年1月9日 | 東京帝大 | |||||||||
035 | 1970年 | 競技者 | 天知 俊一 | あまち しゅんいち | 兵庫県 | 中日監督でシリーズ制覇 | 明大時代名捕手として鳴らし、のち東京六大学専属審判となり、早慶天覧試合を始め数多くの大試合の主審をつとめ名審判とうたわれた。戦後招かれて中日ドラゴンズの監督に就任。勝れた技術指導と情味豊かな統率力で同球団の黄金時代を築き、昭和29年には日本シリーズの制覇を獲得した。 | 1903年12月30日 | 1976年3月12日 | 今津小→甲陽中学→東京作新→明治大 | 中日(1949~50年)、名古屋(51年)、中日(54、57~58年) | ||||||||
036 | 1970年 | 競技者 | 二出川 延明 | にでがわ のぶあき | 兵庫県 | 初代パ・リーグ審判部長 | 俊足好打の名外野手として明大、全大阪等で活躍。昭和9年巨人軍結成に加わり渡米。昭和11年日本職業野球連盟結成後、審判員に転向。爾来27年間、名アムパイアとしてプロ野球の発展につくした。その機敏な行動、明快なジャッジは定評があり、数々の逸話とともにファンの人気を集めた。 | 1901年8月31日 | 1989年10月16日 | 神港中学→明治大 | 全大阪 | ||||||||
037 | 1970年 | 特別 | 田村 駒治郎 | たむら こまじろう | 大阪府 | 松竹ロビンスオーナー | 田村駒株式会社々長として関西財界第一線に活躍した。スポーツに関心深く、特に野球を熱愛してプロ野球および社会人野球に参画し、私財を投じて、これらを育成した。昭和12年、プロ野球創生期にライオン取締役、昭和16年以降オーナーとして直接球団経営に当り、17年の永きにわたり常に率先してプロ野球発展に貢献した。 | 1904年2月21日 | 1961年1月21日 | 天王寺商業 | |||||||||
038 | 1970年 | 特別 | 直木 松太郎 | なおき まつたろう | 京都府 | 野球規則を本格的に翻訳出版 | 明治43年、アメリカの野球規則を翻訳出版。大正6年、日本最初の本格的な野球規則を完成した。また独自の野球記録法を考案して全国に普及しただけでなく、実戦セオリーを確立して、母校慶応チームにこれを徹底的にたたきこみ、当時来日して無敗を誇ったシカゴ大学に初めて土をつける等野球技の基礎づくりに大きな足跡を残した。 | 1891年 | 1947年 | 慶應大 | |||||||||
039 | 1970年 | 特別 | 中馬 庚 | ちゅうま かのえ | 鹿児島県 | ベースボールを”野球”と訳す | 明治27年ベースボールを「野球」と最初に訳した人で、又同30年には野球研究書「野球」を著作。これは単行本で刊行された本邦最初の専門書で、我が国野球界の歴史的文献と言われている。一高時代は名二塁手。大学に進むやコーチ・監督として後輩を指導。明治草創時代の学生野球の育ての親と云われた。 | 1870年 | 1932年 | 一高→東京帝大 | |||||||||
040 | 1971年 | 特別 | 小西 得郎 | こにし とくろう | 東京都 | 独特の話法で人気を博した名解説者 | 明治大学で八代目の主将をつとめ、卒業後は広く後輩を指導し、野球技術の向上に献身した。プロ野球創立以来、大東京、名古屋、松竹、大洋の各球団監督を歴任し、松竹ロビンス監督としてセ・リーグ初の優勝をもたらした。野球評論家としても一家をなし、特に実況放送を通じ独自の解説をもって全国のファンを啓発し、野球の隆昌に貢献した。 | 1896年7月10日 | 1977年6月9日 | 三高→日本中学→明治大 | 大東京(1936秋~37年春)、ライオン(37秋~38年)、名古屋(39~41年)、松竹(50年)、大洋(52年)、洋松(53年) | ||||||||
041 | 1971年 | 特別 | 水野 利八 | みずの りはち | 岐阜県 | 用具の生産・改良に尽力 | 日露戦争から帰還して、わが国の将来にスポーツ普及の必要を痛感し、明治39年美津濃商店を創立。当時未開発のスポーツ用具の研究生産に没頭するとともに、率先して実業団や中学、高専の野球大会を主催して、今日の都市対抗野球や甲子園大会の先鞭をつける等、生涯をスポーツ振興に献身した。遺志により水野スポーツ振興財団が設立された。 | 1884年5月15日 | 1970年3月9日 | 興文小尋常科→高等科 | |||||||||
042 | 1972年 | 競技者 | 石本 秀一 | いしもと しゅういち | 広島県 | 広島カープ初代監督 | 大正初期、広島商業の投手として全国大会で活躍。同12年から母校の監督となり、卓抜した精神教育で選手を指導し、永らく同校に栄誉をもたらした。のちプロ野球界に入り阪神、金鯱、旧大洋、旧西鉄、太陽、広島の監督を歴任。また数球団のコーチをつとめた。多年に亘り球団の指導強化につくした功績は大きく、その門下から数多くの逸材が生れた。 | 1897年11月1日 | 1982年11月10日 | 広島商業→関西学院 | タイガース(1936秋~39年)、金鯱(40年)、大洋(42年)、西鉄(43年)、大陽(49年)、広島(50~53年) | ||||||||
043 | 1972年 | 特別 | 中野 武二 | なかの たけじ | 東京都 | 審判の権威と信頼を確立 | 明治30年代一高の名二塁手で、その好守は、旅順要塞「老鉄山」にたとえられた。当時は選手が審判をつとめたが、その厳正明確な判定は高く評価され、野球審判官の権威を確立した。卒業後常に後輩を指導して、野球精神の真髄を宣揚し、又芝浦野球協会の設立を推進して野球場を建設するなど明治から大正にかけて野球界の指導者として活躍した。 | 1884年 | 1947年 | 一高→東京帝大 | |||||||||
044 | 1972年 | 特別 | 太田 茂 | おおた しげる | 香川県 | 運動記者の草分け | 明治36年に始った初期早慶戦を軍記物語式の名文で描写して以来、四州(志蹴)の筆名で書いた試合記事は読者の人気を独占した。又ながらく雑誌「運動界」の責任編集に任じ、鋭意野球の啓蒙に尽瘁し、生涯を野球批評のために貫き、文筆をもって学生スポーツの健全な発展に献身した。 | 1881年 | 1940年2月26日 | 高松中学→法政大 | |||||||||
045 | 1973年 | 特別 | 内海 弘蔵 | うつみ こうぞう | 神奈川県 | 明大野球部長 | 国文学者。明治大学教授。明治43年野球部を創設。なが年その育成強化に献身して、同校の伝統を築いた。早慶戦の20年にわたる中断を憂い、大正14年率先調停に当って、遂にこれを復活せしめ、つヾいて東京六大学リーグの結成を推進し成功する等生涯を通じ野球の健全な発展に寄与した。 | 1872年 | 1935年 | 独協中学→一高→東京帝大 | |||||||||
046 | 1973年 | 特別 | 天野 貞祐 | あまの ていゆう | 神奈川県 | 学生野球協会第2代会長 | カント哲学の権威で一高校長。文部大臣、日本育英会長などを歴任。少年時代から野球を熱愛し、50余年の教育生活で常にスポーツ精神の尊さとその実践の必要を説きつヾけた。安部磯雄についで第二代学生野球協会の会長となり、戦後学生野球の復興と秩序の確立に尽瘁し、学生野球憲章の制定、学生野球会館の創設など多くの業績を残した。 | 1884年9月30日 | 1980年3月6日 | 独協中学→一高→京都帝大 | |||||||||
047 | 1973年 | 特別 | 広瀬 謙三 | ひろせ けんぞう | 愛知県 | スポーツ記録の第一人者 | 大正初年から運動記者となり、苦学力行してあらゆる競技に蘊奥を極めた。プロ野球創立後公式記録員となり、黙々と精進し、野球規則、記録集計の権威者となった。その抜群の記憶力と正確な判断力は、運動界で生き字引と尊敬されるに至った。名著「日本の野球史」はじめ貴重な文献を残した。 | 1895年4月15日 | 1970年11月17日 | 名古屋市第7高等小学校 | |||||||||
048 | 1974年 | 競技者 | 藤村 富美男 | ふじむら ふみお | 広島県 | 猛打の初代ミスタータイガース | 昭和初期呉港中学投手として名声を博し、夏の甲子園大会で優勝。タイガース結成当初入団し、のち内野手に転じ、長年にわたり一貫して同チームの主軸として活躍した。その熱烈な闘志と強打巧守はファンの絶大な人気を博して、プロ野球の繁栄に大きな役割を果した。 | 1916年8月14日 | 1992年5月28日 | 大正(呉港)中学 | タイガース(1936~38年)、阪神(43~44、46~56、58年) | 右投右打 | 三塁手、投手 | 通算1558試合、5648打数、1694安打、224本塁打、1126打点、打率.300 | 首位打者1回('50)/最多安打2回('49~'50)/本塁打王3回('36秋、'49、'53)/打点王5回('44、'47~'49、'53) | 最優秀選手1回('49)/ベストナイン6回(三 '47~'52) | 初登板無失点勝利('36.4.29)/1014試合連続出場('46.8.30~'54.7.31)/サイクル安打2度('48.10.2、'50.5.25)/最多連続試合満塁本塁打2('53.4.28~4.29)※プロ記録、セ・記録/代打満塁サヨナラ本塁打('56.6.24)/三塁手・シーズン最多守備機会728('50)※セ・記録/三塁手・シーズン最多刺殺209('50)※セ・記録 | 阪神(1946、55~57年) | |
049 | 1974年 | 競技者 | 藤本 定義 | ふじもと さだよし | 愛媛県 | 29年で5球団を指揮した名監督 | 松山商、早大の投手として活躍。又勝れた指導力で中等学校や実業団の強チームを育成した。昭和11年、巨人軍の監督となって同軍不動の地位を築き上げ、多くの俊英を育てて、プロ野球隆盛に貢献した。戦後も太陽、金星、大映、阪急、阪神各球団を指揮し、名実兼備の大監督とうたわれ、50年にわたって野球界につくした功績は誠に偉大である。 | 1904年12月20日 | 1981年2月18日 | 松山商業→早稲田大 | 大阪鉄道局吹田、全大宮(監督) | 巨人(1936~42年)、パシフィック(46年)、太陽(47年)、金星(48年)、大映(49~56年)、阪急(57~59年)、阪神(61~68年) | |||||||
050 | 1974年 | 特別 | 野田 誠三 | のだ せいぞう | 兵庫県 | 甲子園球場の設計工事責任者 | 阪神電鉄の社長、会長を歴任し実業界に多くの業績を残したが、長年にわたり野球に特別の情熱を傾けた。大正12年、甲子園球場の建設に当って設計責任者となり、努力と研究を重ね、遂に日本最初の近代的大野球場の完成に成功。爾来全野球界に飛躍的な発展をもたらした。高校野球の育成にもつとめ、またタイガースのオーナーとしてプロ野球の振興に尽した。 | 1895年2月11日 | 1978年3月28日 | 姫路中学→八高→京都帝大 | |||||||||
051 | 1976年 | 競技者 | 中上 英雄 | なかがみ ひでお | 韓国 | プロ野球完全試合達成第一号 | 明治大学時代、六大学随一の剛球投手といわれ、リーグ優勝の立役者となる。昭和17年巨人軍に入団。たちまちエースとして頭角を現した。昭和19、21年監督を兼任し、戦中戦後の悪条件のもとでチームの主軸として活躍を続けた。のち自己の不調を克服して独自のスライダーを編み出し、プロ球界を風靡した。昭和25年6月、日本プロ野球最初の完全試合を達成。 | 1918年5月18日 | 1997年4月26日 | 下関商業→明治大 | 巨人(1942~44、46年)、中日(47年)、巨人(48~55年) | 右投右打 | 投手 | 通算367試合登板、200勝87敗、1177奪三振、防御率1.90 | 最高勝率3回('43、'46、'49)/最優秀防御率3回('43、'46、'49)/最多勝利1回('43)/最多奪三振2回('43~'44) | ベストナイン1回(投 '49)/沢村賞1回('49) | 完全試合('50.6.28)/ノーヒットノーラン('43.5.22)/通算最高勝率(投球回2000以上).697※プロ記録/通算最優秀防御率(投球回2000以上)1.9※プロ記録/シーズン最優秀防御率0.73('43)※プロ記録/シーズン最多無失点勝利19('43)※プロ記録/最多連続試合無失点勝利6('43.8.2~9.12)※プロ記録/62イニング連続無失点('43.8.1~9.15) | 巨人(1944、46年) | |
052 | 1976年 | 特別 | 小泉 信三 | こいずみ しんぞう | 東京都 | 学徒出陣壮行早慶戦実施 | 慶応義塾大学の塾長。東宮ご教育掛を歴任した偉大な教育者。庭球の名選手であると共に、野球はじめスポーツ全体に深い愛情と広い識見を持つスポーツマンであった。戦時下学生野球が続行不能に瀕したとき、毅然として非常時局におけるスポーツ精神の高揚を力説し、昭和18年秋万難を排して学徒壮行早慶戦を決行して、出陣学生らへのはなむけとした。戦後も学生野球の指導者としてその発展に献身した。 | 1888年5月4日 | 1966年5月11日 | 御田小→慶應普通部→慶應大 | |||||||||
053 | 1977年 | 競技者 | 水原 茂 | みずはら しげる | 香川県 | 巨人第2期黄金時代の名監督 | 高松商業在学中、投手、三塁手として再度の全国優勝に貢献し、のち慶応義塾に進んで、ますますその力を発揮し投・打・守に活躍した。特に堅実華麗な三塁守備は六大学の花といわれた。続いて巨人軍に参加し、長年にわたり名三塁手としてプロ野球に君臨した。戦後巨人の監督に就任して、同軍の黄金時代を築き、また東映、中日の監督を歴任してチームを強化育成。その大胆にして緻密な指導力は世上に高く評価された。 | 1909年1月19日 | 1982年3月26日 | 高松商業→慶應大 | 巨人(1936秋~42、50年) | 右投右打 | 三塁手 | 通算523試合、1960打数、476安打、12本塁打、184打点、打率.243 | 巨人(1950~60年)、東映(61~67年)、中日(69~71年) | ||||
054 | 1977年 | 競技者 | 西沢 道夫 | にしざわ みちお | 東京都 | 14歳でプロ入り、投打に活躍 | 名古屋軍のテスト生として14歳でプロ球界に入り、本格派投手に成長した。昭和17年大洋軍(旧)と闘い、相手チーム野口二郎と共に28回の延長試合に完投の記録を樹てた。戦後打撃に精進して有数のホームラン打者となり、その鮮やかな一塁守備とともにプロ野球を代表する名選手として人気を集めた。のち中日ドラゴンズの監督をつとめ、続いて野球評論家として活躍した。 | 1921年9月1日 | 1977年12月18日 | 鹿児島総合中 | 名古屋(1937秋~43年)、中部日本(46年)、ゴールドスター(46年)、金星(47~48年)、中日(49~50年)、名古屋(51~53年)、中日(54~58年) | 右投右打 | 投手 | 通算231試合登板、60勝65敗、404奪三振、防御率2.23 通算1704試合、5999打数、1717安打、212本塁打、940打点、打率.286 | 首位打者1回('52)/打点王1回('52) | ベストナイン3回(一 '50、'52、'54) | ノーヒットノーラン('42.7.18)/シーズン最多満塁本塁打5('50)※プロ記録、セ・記録/25試合連続安打('49.4.3~5.3)/11試合連続打点('49.5.8~5.29) | 中日(1964~67年) | |
055 | 1977年 | 特別 | 森 茂雄 | もり しげお | 愛媛県 | 早大監督で9回優勝 | 松山商業、早稲田大学で強打の内野手とうたわれ、また大阪タイガース、イーグルスの初代監督として采配を揮った。戦後10余年間早大の監督をつとめ、六大学リーグ優勝9回の記録を樹立し、又多くの人材を育成した。その後、大洋球団社長、川崎球場社長を歴任。なが年にわたって野球界に多くの業績を残した。 | 1906年3月18日 | 1977年6月24日 | 松山商業→早稲田大 | 東京倶楽部 | イーグルス(1937秋~38) | 右投右打 | 通算4試合、4打数、0安打、0本塁打、0打点、打率.000 | タイガース(1936年春夏)、イーグルス(37~39年)、大洋(59年) | ||||
056 | 1977年 | 特別 | 西村 幸生 | にしむら ゆきお | 三重県 | 草創期のタイガースを支えたエース | 関西大学野球部黄金時代のエースであり、東京六大学チームを連破し万丈の気を吐いた。大阪タイガースに入団。主戦投手として年度優勝の立役者となり、特に沢村投手との対決では多くの名勝負を生んで当時の野球ファンを魅了した。わずか3年間のプロ野球生活であったが、大きな業績と共に強い印象をのこした。 | 1910年11月10日 | 1945年4月3日 | 厚生小→宇治山田中学→関西大 | タイガース(1937~39年) | 右投右打 | 投手 | 通算112試合登板、55勝21敗、394奪三振、防御率2.01 | 最優秀防御率2回('37秋~'38春)/最多勝利1回('37秋) | ||||
057 | 1978年 | 競技者 | 松木 謙治郎 | まつき けんじろう | 福井県 | 初代タイガース主将、猛打で沢村と対決 | 敦賀商業から明治大学に進み、不断の練習と不屈の闘志で六大学リーグ屈指の強打者となった。大連実業団を経て昭和11年大阪タイガースの結成に参加。主将、一塁手、先頭打者としてチームの主動力となり「打倒沢村」の宿願を果して、昭和12、13年度の黄金時代を築いた。戦後には阪神、大映、東映等の監督を歴任。親分肌の人柄と卓越した指導力は選手の信望を集め、多くの俊英を育てて球界に貢献した。 | 1909年1月22日 | 1986年2月21日 | 敦賀商業→明治大 | 名古屋鉄道局、大連実業団 | タイガース(1936~39年)、阪神(1940~41、50~51年) | 左投左打 | 一塁手 | 通算479試合、1706打数、448安打、18本塁打、224打点、打率.263 | 首位打者1回('37春)/最多安打1回('37春)/本塁打王1回('37春) | 阪神(1940~41、50~54年)、大映(56~57年)、東映(69~70年) | ||
058 | 1978年 | 競技者 | 浜崎 真二 | はまざき しんじ | 広島県 | 48歳で投げた小さな大投手 | 神戸商業、慶応大学、満州クラブを通じて、常に投打の主軸となって活躍を続けた。特に昭和2年秋の早慶戦完封勝利。41才で満倶のエースをつとめて全国制覇した昭和16年の神宮大会などの好投は有名で、身長150センチの小躯ながら小気味よい切味で、長年球界の桧舞台に君臨した名投手である。戦後、阪急、高橋、国鉄等プロ球団の監督を勤め、引退後は評論家として率直な批評や苦言を呈して「球界のご意見番」と評価された。 | 1901年12月10日 | 1981年5月6日 | 広島商業~神戸商業→慶應大 | 大連満州倶楽部 | 阪急(1947~48、50年) | 左投左打 | 投手 | 通算30試合登板、5勝5敗、23奪三振、防御率4.03 | 阪急(1947~53年)、高橋(54年)、トンボ(55年)、国鉄(63年) | |||
059 | 1978年 | 特別 | 伊丹 安広 | いたみ やすひろ | 香川県 | 早大の頭脳的名捕手 | 佐賀中学から早稲田大学に進み、攻守兼備の名捕手とうたわれ、卒業後も東京クラブ、六大学の審判等で活躍した。昭和15年から母校早大の監督となり、戦時下の学生野球存続に尽し、戦後には学生野球・社会人野球の振興につとめた後、明治神宮外苑長として多くの困難と障害を克服して、野球場をはじめスポーツ施設の改修拡充を行って、学生野球、プロ野球の共存共栄を実現したほか、野球界全体の発展に著しい功績をのこした。 | 1904年2月17日 | 1977年10月19日 | 佐賀中学→早稲田大 | 東京倶楽部 | ||||||||
060 | 1978年 | 特別 | 吉原 正喜 | よしはら まさき | 熊本県 | 巨人第1期黄金時代の強肩捕手 | 熊本工業の捕手で主将をつとめ、甲子園の全国大会や秋の神宮大会で輝かしい成績を残した。昭和13年巨人軍に加入。直ちに正捕手に抜擢されて、スタルヒン、沢村らの女房役をつとめ、弱冠ながら能くその責を果した。強肩・俊足・攻守に勝れ、特に闘志あふれるプレーはチームを引締め、ファンの人気を集めた。前後4年の活躍であったが、その間しばしば最高殊勲選手にも選ばれ、創成期のプロ野球で忘れがたい名捕手である。 | 1919年1月2日 | 1944年10月10日 | 本荘小高等学校→熊本工高 | 巨人(1938~41年) | 右投右打 | 捕手 | 通算339試合、1103打数、261安打、9本塁打、103打点、打率.237 | |||||
061 | 1978年 | 特別 | 岡田 源三郎 | おかだ げんざぶろう | 東京都 | 全ポジションを守った明大万能選手 | 少年時代からスポーツ競技に秀で、明治大学では捕手を始め全守備位置をこなす天才ぶりを発揮した。大正12年同大学の監督となり、独特の養成法で多くの名選手を育成して黄金時代を築いた。金鯱軍の初代監督としてプロ野球にも参与したが、大正・昭和を通じ、野球技術の指導に熱情を傾け、コーチとしての足跡は殆んど日本全土に及んだ。81才の全生涯を野球一筋に生き、斯界の発展向上に貢献した。 | 1896年3月25日 | 1977年10月26日 | 早稲田実業→明治大 | 金鯱(1937~39年) | 右投右打 | 捕手 | 通算24試合、52打数、15安打、0本塁打、12打点、打率.288 | 金鯱(1936~39年) | ||||
062 | 1979年 | 競技者 | 別所 毅彦 | べっしょ たけひこ | 兵庫県 | 310勝をあげた南海、巨人のエース | 滝川中学の剛球投手で有名。昭和17年秋プロ球団南海に入団したが、戦後大いにその天分を伸ばし、一リーグ時の南海再度の優勝の立役者となる。24年巨人に入団後ますます技倆円熟し、長年に亘り投手陣の主軸となって健闘。スタルヒンの生涯記録を抜いて通算310勝の大記録を樹立した。現役引退後もコーチ、監督を歴任し後進の育成、指導に献身した。 | 1922年10月1日 | 1999年6月24日 | 滝川中学→日本大中退 | 南海(1942~43年)、グレートリング(1946年)、南海(47~48年)、巨人(49~60年) | 右投右打 | 投手 | 通算662試合登板、310勝178敗、1934奪三振、防御率2.18 | 最高勝率1回('48)/最優秀防御率1回('55)/最多勝利3回('47、'52、'56)/最多奪三振1回('47) | 最優秀選手2回('52、'56)/ベストナイン6回(投 '47~'48、'51~'52、'55~'56)/沢村賞2回('47、'55) | ベストナイン(投手)6回受賞※プロ記録/ノーヒットノーラン('43.5.26)/シーズン最多完投47('47)※プロ記録/通算最高勝率(投球回2000以上)0.668※セ・記録/49.1イニング連続無失点('55.7.9~7.31) | サンケイ(1968年)、アトムズ(69年)、ヤクルト(70年) | |
063 | 1979年 | 特別 | 平沼 亮三 | ひらぬま りょうぞう | 神奈川県 | 東京六大学野球連盟第2代会長 | 明治、大正、昭和を通じ、スポーツの育成に熱情を注ぎ、各種球技団体の会長を歴任し、広く「アマチュアスポーツの父」と尊敬された。 明治25年慶応義塾野球部創設時の初代幹事をつとめ、又三塁手として活躍。同大学野球部の長い伝統の基礎を作った。 昭和7年から東京六大学野球連盟第二代会長となり、非常時下における学生野球の運営に尽すいした。 | 1879年2月25日 | 1959年2月13日 | 慶應義塾大学 | |||||||||
064 | 1979年 | 特別 | 谷口 五郎 | たにぐち ごろう | 佐賀県 | 大正時代の早大エース | 大正9年秋早稲田大学に入学。飛田監督の指導を受けて、心技とも格段の進境をとげ、球界屈指の大投手となって同大学野球部の黄金時代を築いた。三田・稲門戦では三田の名投手小野との一騎討で数々の名勝負を生み、球史に不朽の一頁を残した。卒業後は大連実業団の柱石となって長く満州球界に貢献。戦後には社会人野球やプロ球界で後進の指導につとめた。 | 1901年1月2日 | 1980年9月26日 | 釜山商業→早稲田大 | 大連実業団 | ||||||||
065 | 1980年 | 競技者 | 大下 弘 | おおした ひろし | 兵庫県 | “青バット”の天才打者 | 昭和20年秋プロ野球復活と共に新球団セネタースに入り、東西対抗に初出場。たちまち猛打を揮って注目を集めた。翌21年戦前の記録を大きく更新して本塁打王となり、その後も華々しい活躍を続けて、川上哲治と共に大打者としての象徴的存在となった。同27年西鉄に移り、同チーム最盛期の主軸となる。現役引退後は阪急、東映、大洋のコーチ、監督を歴任。また少年野球の育成にも情熱を傾けた。 | 1922年12月15日 | 1979年5月23日 | 台湾・高雄商業→明治大 | セネタース(1946年)、東急(47年)、急映(48年)、東急(49~51年)、西鉄(52~59年) | 左投左打 | 外野手 | 通算1547試合、5500打数、1667安打、201本塁打、861打点、打率.303 | 首位打者3回('47、'50~'51)/最多安打1回('47)/本塁打王3回('46~'47、'51) | 最優秀選手1回('54)/ベストナイン8回(外 '47、'49~'54、'57) | ゲーム最多安打7('49.11.19)※プロ記録/サイクル安打('54.7.15) | 東映(1968年) | |
066 | 1980年 | 競技者 | 小鶴 誠 | こづる まこと | 福岡県 | シーズン51本の本塁打王 | 昭和17年、プロ野球名古屋軍に加入。強打者として頭角を現わしたが、戦後大いにその真価を発揮した。同24年大映で首位打者を獲得。翌25年松竹に移って51本の日本記録で本塁打王、打点王となり最高殊勲選手に選ばれた。その打撃フォームと強打振りは米大打者ジョー・ディマジオに擬せられ、長らくファンを楽しませた。その後、広島、国鉄、阪神等で活躍。後進の指導に努めた。 | 1922年12月17日 | 2003年6月2日 | 鯰田小→飯塚商業学校 | 八幡製鉄 | 名古屋(1942、43年)、中部日本(46年)、中日(47年)、急映(48年)、大映(49年)、松竹(50~52年)、広島(53~58年) | 右投右打 | 外野手 | 通算1655試合、6141打数、1717安打、230本塁打、923打点、打率.280 | 首位打者1回('49)/本塁打王1回('50)/打点王1回('50) | 最優秀選手1回('50)/ベストナイン2回(外 '49~'50) | シーズン最多得点143('50)※プロ記録、セ・記録/シーズン最多長打85('50)※セ・記録/シーズン最多塁打376('50)※プロ記録、セ・記録/シーズン最多打点161('50)※プロ記録、セ・記録/10試合連続打点('50.5.17~5.31) | |
067 | 1980年 | 特別 | 千葉 茂 | ちば しげる | 愛媛県 | “猛牛”といわれた巨人名二塁手 | 松山商業時代夏の甲子園大会で優勝。昭和13年春巨人軍に入団。爾来二塁手三番打者で健斗し、戦前の同軍黄金時代の主戦力となる。戦後もチームの主軸となって活躍を続け、名二塁手として不動の地位を築いた。終始チーム全体の昂揚を念じ、堅実無比な守備と有効適切の強打によって、長期間にわたり同軍安泰のために大いに貢献した。のち近鉄バファローズの監督をつとめ、引退後野球評論家となる。 | 1919年5月10日 | 2002年12月9日 | 松山市東雲小→松山商業 | 巨人(1938~41、46~56年) | 右投右打 | 二塁手 | 通算1512試合、5643打数、1605安打、96本塁打、691打点、打率.284 | ベストナイン7回(ニ '47~'53) | ベストナイン(ニ塁手)7回受賞※プロ記録/ゲーム最多得点6('48.10.16)※プロ記録 | 近鉄(1959~61年) | ||
068 | 1981年 | 競技者 | 飯田 徳治 | いいだ とくじ | 神奈川県 | 1246試合連続出場 | 横浜浅野中学の投手四番打者で活躍。東鉄管理局の主力打者で昭和17年21年の都市対抗野球大会に出場、打撃賞を獲得した。22年南海ホークスに入団。攻守走三拍子揃った名一塁手としてチームの黄金時代の一翼を担った。特に23年秋から33年5月までの10年間に樹立した1246試合連続出場という前人未到の大記録は高く評価された。のち国鉄、サンケイ、南海のコーチ、監督をつとめ、誠実な人柄と指導で信望を集めた。 | 1924年4月6日 | 2000年6月19日 | 横浜市立浦島小→浅野中学 | 東京鉄道管理局 | 南海(1947~56年)、国鉄(57~63年) | 右投右打 | 一塁手 | 通算1965試合、6970打数、1978安打、183本塁打、969打点、打率.284 | 最多安打2回('52、'55)/打点王2回('51~'52)/盗塁王1回('57) | 最優秀選手1回('55)/ベストナイン5回(一 '50~'53、外 '55) | 1246試合連続出場('48.9.12~'58.5.24)/サイクル安打('55.8.24) | サンケイ(1966~67年)、南海(69年) |
069 | 1981年 | 競技者 | 岩本 義行 | いわもと よしゆき | 広島県 | 神主打法で1試合4ホーマー | 昭和7年広陵中学から明治大学に入学。豪快なプレーで神宮球場の人気を集め、卒業後南海球団に加入。戦時下のプロ野球界で活躍した。戦後37歳でプロ野球に帰り咲いたが、持前の強打力は少しも衰えを見せず、松竹ロビンス優勝の立役者となり、また一試合4本塁打18塁打の快記録をつくった。29年30年の都市対抗野球大会に出場して健在ぶりを発揮し、31年から41年まで東映、近鉄の監督、コーチを歴任して後進の指導に尽くした。 | 1912年3月11日 | 2008年9月26日 | 広陵中学→明治大 | 南海(1940~42年)、大陽(49年)、松竹(50~51年)、大洋(52年)、洋松(53年)、東映(56~57年) | 右投右打 | 外野手 | 通算856試合、3121打数、859安打、123本塁打、487打点、打率.275 | ベストナイン2回(外 '50~'51) | ゲーム最多本塁打4('51.8.1)※プロ記録、セ・記録/ゲーム最多塁打18('51.8.1)※プロ記録、セ・記録/シーズン最多死球24('52)※プロ記録、セ・記録/27試合連続安打('51.4.22~6.6) | 南海(1942年)、東映(56~60年)、近鉄(1965~66年) | ||
070 | 1981年 | 特別 | 佐伯 達夫 | さえき たつお | 兵庫県 | 第3代高野連会長 | 大正初期、市岡中学、早稲田大学の三塁手で活躍。豊中、鳴尾、甲子園と続いた全国中等学校野球大会(現高校野球大会)に大正9年以来役員として参画し、戦後高野連の創設に伴い副会長、会長を歴任。高校野球は教育の一環なりとの信念に徹してこれの指導育成に専念し、高野連今日の隆盛を築いた。また、大学、社会人野球の指導者としてその発展に貢献。87歳の生涯を通じて日本の野球界に残した功績は偉大である。 | 1892年 | 1980年3月22日 | 市岡中学→早稲田大 | |||||||||
071 | 1981年 | 特別 | 小川 正太郎 | おがわ しょうたろう | 和歌山県 | 社会人野球協会結成に貢献 | 和歌山中学時代、中学球界不世出の名投手といわれ、昭和4年早稲田大学に入学の年、宮武、水原らと対決した早慶の熱戦は特に有名である。病気のため現役は2年で終わったが、卒業後毎日新聞社に入社、野球評論で健筆を奮った。24年社会人野球協会設立に参画し、爾来18年間理事・事務局長として協会の整備、発展に専念した。また軟式野球連盟理事、日本野球規則委員をつとめ、アマチュア球界の発展に大いに貢献した。 | 1910年4月1日 | 1980年10月27日 | 和歌山中学→早稲田大 | |||||||||
072 | 1982年 | 特別 | 鈴木 龍二 | すずき りゅうじ | 東京都 | セ会長を長年務め、球界の発展に尽力 | 昭和11年大東京軍の代表として日本職業野球連盟の結成に参画して以来、理事長、専務理事、日本野球連盟会長など要職を歴任。太平洋戦争下には軍の弾圧に屈せず、プロ野球の維持存続に力を尽した。戦後廃虚の中いち早く再建に着手。リーグを再興、やがて2リーグ制による隆盛の基礎を築いた。昭和27年セントラルリーグ会長に就任、今日に至る。昭和50年、プロ野球に尽瘁せる功により勲三等瑞宝章を贈られた。 | 1896年3月15日 | 1986年3月30日 | 東京工業学校 | |||||||||
073 | 1982年 | 特別 | 外岡 茂十郎 | とのおか もじゅうろう | 静岡県 | 学生野球憲章制定に尽力 | 法学博士、日本学士院賞受賞、民法家族法の大家で、また学生野球育成に特別の情熱を注いだ。昭和17年から早大野球部長となり、戦時下における大学野球の存続運営に尽瘁し、18年秋の学徒出陣壮行早慶戦を敢行した。戦後学生球界の要職を歴任し、日本学生野球協会設立をはじめ、学生野球憲章の制定、神宮球場の接収解除、海外との交流など多くの業績を以て学生野球全体の秩序確立とその隆昌に貢献した。 | 1898年3月25日 | 1986年8月27日 | 賀茂郡立豆陽中学→早稲田大 | |||||||||
074 | 1983年 | 競技者 | 三原 脩 | みはら おさむ | 香川県 | “魔術師”と称された名監督 | 魔術師と称された名監督。高松中から早大に進み、俊敏果敢なプレーでファンの注目を集めた。昭和9年全大阪の二塁手で都市対抗優勝の殊勲者となり、同年巨人軍入団。のち助監督を兼ねて草創期のプロ野球で活躍した。戦後巨人、西鉄、大洋、近鉄、ヤクルトの監督を歴任、通算3248試合を指揮。その機略縦横の采配は至る所に風雲を巻き起こした。特に西鉄時代の三連覇、大洋の驚異的な日本制覇は有名である。49年には日本ハム球団社長に就任し、プロ野球の興隆につくした。 | 1911年11月21日 | 1984年2月6日 | 高松中学→早稲田大 | 全大阪 | 巨人(1936秋~37春、38年) | 右投右打 | 二塁手 | 通算108試合、407打数、92安打、0本塁打、40打点、打率.226 | 巨人(1947~49年)、西鉄(51~59年)、大洋(60~67年)、近鉄(68~70年)、ヤクルト(71~73年) | |||
075 | 1983年 | 特別 | 内村 祐之 | うちむら ゆうし | 東京都 | 第3代コミッショナー | わが国精神医学の泰斗であると同時に偉大なスポーツマンであった。大正時代に一高、東大で不世出の名投手とうたわれた。その快腕は当時の野球界を席捲した。のち、学生野球の指導者として活躍、戦後はプロ野球最高委員となる。アメリカ野球に明るく、常に日本球界に真のスポーツマンシップを鼓吹。昭和37年にはコミッショナーに就任。球界の秩序維持に専念し、特に選手の教育と待遇の向上、組織内の整備、日米関係の調整など多くの功績を残した。 | 1897年11月12日 | 1980年9月17日 | 獨協中学→一高→東京帝大 | |||||||||
076 | 1984年 | 特別 | 桐原 眞二 | きりはら しんじ | 大阪府 | 早慶戦復活に尽力した慶大主将 | 大正8年慶応義塾大学に入学。卒業後大毎野球団(実業団)に入る。終始遊撃手として活躍その攻守走に勝れた天才的プレイは当代随一の名手とうたわれた。大正13年慶大主将当時、大学野球リーグ戦の変則状態を歎き、明治39年以来中断されていた早慶戦の早期復活を念じて孤軍奮闘し、遂に翌14年秋19年ぶりにその復活を実現し、現在の六大学リーグ戦制度の基盤をつくった。日本野球史上一時代を劃した功績である。 | 1901年8月22日 | 1945年6月10日 | 北野中学→慶応義塾大学 | |||||||||
077 | 1985年 | 競技者 | 杉下 茂 | すぎした しげる | 東京都 | フォークボールの大投手 | 帝京商、明大を経て昭和24年中日に入団。独自のフォークボールと快速球を駆使して目覚しい活躍を続け、プロ野球史に一時代を築いた。特に29年には最高殊勲選手を始め投手成績の各タイトルを独占する働きでチームにセ・リーグ初優勝を齎し、対西鉄の日本シリーズでも連投してその制覇の原動力となった事は驚異に価するものである。34年から中日、大毎、阪神、巨人のコーチ、監督を歴任した。 | 1925年9月17日 | 2023年6月12日 | 帝京商業→明治大学 | 中日(1949~50年)、名古屋(51~53年)、中日(54~58年)、大毎(61年) | 右投右打 | 投手 | 通算525試合登板、215勝123敗、1761奪三振、防御率2.23 | 最高勝率1回('54)/最優秀防御率1回('54)/最多勝利2回('51、'54)/最多奪三振2回('50、'54) | 最優秀選手1回('54)/ベストナイン1回(投 '54)/沢村賞3回('51~'52、'54) | ノーヒットノーラン('55.5.10) | 中日(1959~60年)、阪神(66年)、中日(68年) | |
078 | 1985年 | 競技者 | 白石 勝巳 | しらいし かつみ | 愛媛県 | 巨人初期黄金時代の名遊撃手 | 広陵中学では強打の一塁手。昭和11年巨人軍に入団。猛練習の末、屈指の名遊撃手となり戦前の黄金時代を築いた。堅実無比のプレーは名人芸といわれ、特に逆シングルの妙技は戦前戦後を通じファンを魅了した。25年広島カープに移り攻守の主軸で活躍。監督に就任後もチームの強化育成に尽瘁して現在のカープ球団の基盤づくりに貢献した。43年から巨人軍のコーチとなり9連覇達成に寄与した。 | 1918年4月15日 | 2000年12月11日 | 広陵中学 | 巨人(1936~43年)、パシフィック(46年)、巨人(48~49年)、広島(50~56年) | 右投右打 | 遊撃手 | 通算1651試合、6151打数、1574安打、84本塁打、571打点、打率.256 | ベストナイン1回(遊 '50) | イニング最多本塁打2('50.5.28)※プロ記録、セ・記録/ゲーム6安打('49.4.19) | 広島(1953~60年、63~65年) | ||
079 | 1985年 | 競技者 | 荒巻 淳 | あらまき あつし | 大分県 | 「火の玉投手」と呼ばれたパ・リーグ初代新人王 | 大分経専時代、全国高専大会の決勝戦で奪三振23を記録。左腕からの快速球の威力は「日本の火の玉投手」と呼ばれた。昭和24年夏の都市対抗では星野組のエースで優勝。橋戸賞を獲得した。翌年毎日オリオンズに入団。たちまち最多勝26、防御率1位で新人王となり、同球団のパ・リーグ優勝、二リーグ制最初の日本シリーズ制覇に貢献した。その後も主力投手で活躍、昭和37年から阪急・ヤクルトのコーチを歴任、後進を育成した。 | 1926年11月16日 | 1971年5月12日 | 大分商業→大分経専 | 別府星野組 | 毎日(1950~57年)、大毎(58~61年)、阪急(62年) | 左投左打 | 投手 | 通算508試合登板、173勝107敗、1069奪三振、防御率2.23 | 最優秀防御率1回('50)/最多勝利1回('50 | 新人王('50)/ベストナイン1回(投'50) | ||
080 | 1985年 | 特別 | 田中 勝雄 | たなか かつお | 大阪府 | 早大で首位打者3度のスラッガー | 大正7年、市岡中から早大に入学。強打・攻守の外野手として四大学(のち六大学)リーグで活躍した。特に350匁(1313g)のバットから放つ豪快な外野柵越の長打はファンの驚嘆の的となった。大正10年アメリカ遠征中、強打者ホーンスビーの指導を受けてますますその真価を発揮し、日本最初の本格的ホームラン打者と謳われるに至った。卒業後、オール大阪や早大監督、プロ野球朝日軍の役員をつとめ、球界の発展につくした。 | 1898年7月10日 | 1995年3月2日 | 市岡中学→早稲田大学 | 全大阪(監督) | ||||||||
081 | 1985年 | 特別 | 山内 以九士 | やまのうち いくじ | 島根県 | 野球規則・記録の研究、整備に貢献 | 慶大在学時代、直木松太郎氏に師事して、ルールの研究に没頭。昭和15年に広瀬謙三氏と共同で「日本野球規則」を編纂した。また戦前戦後を通じてプロ野球規則委員、公式記録員として活躍を続け、創生時からの記録を整備して集計の基礎を確立したほか、ベースボール・レディ・レコナー(打率早見表)、ヤマウチ式スコアーブック、勝敗投手の細則等を作成するなど多くの業績を残して球界の隆盛発展に寄与した。 | 1902年3月31日 | 1972年6月3日 | 松江中学→慶應義塾大学 | |||||||||
082 | 1986年 | 特別 | 中河 美芳 | なかがわ みよし | 鳥取県 | 名物の守備で活躍した投手兼一塁手 | 鳥取一中、関大を経て昭和12年8月、イーグルス(黒鷲)に入団。左腕投手兼一塁手、しかも中心打者として活躍。特にどんな難球でもタコの吸盤のように吸い取る完璧なまでの一塁守備はプロ野球の名物になり、多くの野球ファンを球場に引き付けた。戦火に散ったためわずか5年間のプロ野球生活であったが人々に強い印象を残した。 | 1920年2月22日 | 1944年 | 鳥取一中→関西大学 | イーグルス(1937秋~39年)、黒鷲(40~41年) | 左投左打 | 一塁手、投手 | 通算373試合、1342打数、325安打、1本塁打、123打点、打率.242 / 通算111試合登板、41勝38敗、259奪三振、防御率2.32 | 一塁手・シーズン連続守備機会無失策500('41.5.11~11.17) | ||||
083 | 1986年 | 特別 | 松方 正雄 | まつかた まさお | 鹿児島県 | タイガース初代会長 | 維新の元勲松方公爵の四男で、早くからアメリカで教育を受けた。ペンシルベニア大学では俊足の二塁手として活躍し、帰国後は関西財界の重鎮として多くの役員を歴任したが、昭和10年にタイガース初代会長に就任するや巨人に匹敵するチーム作りに専任し、名門タイガースの基礎を築いた。また日本職業野球連盟の初代副総裁として、草創期のプロ野球の発展に尽くした。 | 1868年5月7日 | 1942年3月25日 | ペンシルベニア大学 | |||||||||
084 | 1987年 | 特別 | 藤田 信男 | ふじた のぶお | 中国・天津市 | 法大初優勝監督 | 法政大学名誉教授。大正11年法大入学、監督として昭和5年秋東京六大学リーグ戦に初優勝して以来昭和10年春まで四度優勝第一期黄金時代を築く。後、学生部長となり、一貫して母校野球部の強化に努めるとともに長きにわたって学生及びアマチュア球界の要職にあってその発展に尽すいし、野球技術向上のため国際交流にも力を入れるなど我国野球界全体の健全な発展のため今なお活躍を続けている。 | 1903年1月9日 | 1992年4月25日 | 伊丹中学→法政大学 | |||||||||
085 | 1987年 | 特別 | 山下 実 | やました みのる | 兵庫県 | 慶大黄金時代の強打者 | 第一神港商業時代完成したばかりの甲子園球場で大本塁打を放ち「怪物」の異名をとる。東京六大学全盛時代の昭和2年慶大に進学してますます打撃の真価を発揮。その抜群の長打力は多くのファンを魅了した。在学中完全優勝を含むリーグ優勝4回に大きく貢献。卒業後は大連満倶を経て阪急の結成に加わり一塁手監督としてプロ野球の人気高揚に尽くした。 | 1907年3月20日 | 1995年4月4日 | 第一神港商業→慶応義塾大学 | 大連満州倶楽部 | 阪急(1936~40年)、名古屋(1942年) | 左投左打 | 一塁手 | 通算239試合、798打数、208安打、19本塁打、142打点、打率.261 | 本塁打王1回('36秋) | 阪急(1938~40年) | ||
086 | 1988年 | 競技者 | 長嶋 茂雄 | ながしま しげお | 千葉県 | “神宮の星”から“ミスタープロ野球”へ | 六大学プロ野球を通じて史上最高の三塁手と讃えられる。立大では首位打者2回通算本塁打記録をも更新。昭和33年巨人軍に入ると本塁打、打点の2冠を獲得して新人王となる。V9の牽引力となり、好機をのがさぬ打撃とスピード感みなぎる守備でファンを魅了しつづけた。数々のタイトルに輝いて昭和49年に引退。51、52年に同軍監督としてリーグ優勝を果たす。 | 1936年2月20日 | 佐倉一高→立教大学 | 巨人(1958~74年) | 右投右打 | 三塁手 | 通算2186試合、8094打数、2471安打、444本塁打、1522打点、打率.305 | 首位打者6回('59~'61、'63、'66、'71)/最多安打10回('58~'63、'66、'68~'69、'71)/本塁打王2回('58、'61)/打点王5回('58、'63、'68~'70) | 新人王('58)/最優秀選手5回('61、'63、'66、'68、'71)/ベストナイン17回(三 '58~'74)/ゴールデングラブ賞2回(三 '72~'73)/正力賞1回('94) | 首位打者6回※セ・記録/最多安打10回※プロ記録、セ・記録/ベストナイン(三塁手)17回※プロ記録、セ・記録/三塁手・最多連続守備機会無失策(シーズン/連続シーズン)214('69.7.17~10.9)※セ・記録/最多連続試合三塁打4('60.5.8~5.14)※プロ記録・セ・記録 | 巨人(1975~80、93~2001年) | ||
087 | 1988年 | 競技者 | 別当 薫 | べつとう かおる | 大阪府 | 天性の好打者、4球団の監督歴任 | 甲陽中学の剛球投手として甲子園大会で活躍。慶大でも投手、外野手、4番打者で17年春のリーグ戦では首位打者となるなど六大学を代表する強打者であった。全大阪をへて超大型新人として23年阪神に入団。オープン戦の6ホーマーで人気沸騰。2年後には毎日へ移り本塁打、打点で2冠王となる。監督、コーチとしても多くの後進を育て、55、56年大洋球団代表を厂任した。 | 1920年8月23日 | 1999年4月16日 | 甲陽中学→慶応義塾大学 | 全大阪 | 阪神(1948~49年)、毎日(50~57年) | 右投右打 | 外野手 | 通算891試合、3191打数、965安打、155本塁打、549打点、打率.302 | 最多安打1回('50)/本塁打王1回('50)/打点王1回('50) | 最優秀選手1回('50)/ベストナイン6回(外 '48~'53) | イニング最多盗塁3('51.7.26)※プロ記録、パ・記録/外野手・シーズン最多失策12('51)※パ・記録 | 毎日(1952、54~57年)、大毎(58~59年)、近鉄(62~64年)、大洋(67~72年)、広島(73年)、大洋(77~79年) |
088 | 1988年 | 競技者 | 西本 幸雄 | にしもと ゆきお | 和歌山県 | 監督歴20年、8度のパ・リーグ優勝 | 和歌山中学から昭和13年立大へ入学。一塁手主将として活躍。卒業後全京都を経て別府星野組に入団。監督兼任で第20回都市対抗に優勝。統率力にすぐれ、35年大毎球団監督に就任するやリーグ優勝で飾り、監督厂20年間で阪急近鉄を初優勝させるなど、不撓不屈の精神で8度のリーグ優勝を達成、闘将と呼ばれる。 | 1920年4月25日 | 2011年11月25日 | 和歌山中→立教大学 | 全京都、別府星野組 | 毎日(1950~55年) | 左投左打 | 一塁手 | 通算491試合、1133打数、276安打、6本塁打、99打点、打率.244 | 正力賞1回('79) | 大毎(1960年)、阪急(63~73年)、近鉄(74~81年) | ||
089 | 1988年 | 競技者 | 金田 正一 | かねだ まさいち | 愛知県 | 400勝、4490奪三振 | 昭和25年17才で新生国鉄スワローズに入団。早くから大黒柱として活躍しつぎつぎに投手記録をぬりかえて、球界に君臨する大投手となった。とくに対巨人 対長嶋に奮起しファンを歓喜させた。巨人に5年在籍。通算400勝、4490奪三振、14年連続20勝以上の前人未到の大記録を樹立した。49年にはロッテの監督として日本シリーズを制覇した。 | 1933年8月1日 | 2019年10月6日 | 享栄商業 | 国鉄(1950~64年)、巨人(1965~69年) | 左投左打 | 投手 | 通算944試合登板、400勝298敗、4490奪三振、防御率2.34 | 最優秀防御率3回('57~'58、'65)/最多勝利3回('57~'58、'63)/最多奪三振10回('51~'53、'55~'56、'58~'60、'63~'64) | ベストナイン3回(投 '57~'58、'63)/沢村賞3回('56~'58) | 最優秀防御率3回※セ・記録/最多奪三振10回※プロ記録、セ・記録/完全試合('57.8.21)/ノーヒットノーラン('51.9.5)/通算最多登板944※セ・記録/通算最多完投365※プロ記録、セ・記録/シーズン最多完投34('55)※セ・記録/通算最多投球回5526 2/3※プロ記録、セ・記録/通算最多勝利400※プロ記録、セ・記録/通算最多シーズン20勝以上14※プロ記録、セ・記録/最多連続シーズン20勝以上14('51~'64)※プロ記録、セ・記録/通算最多無失点勝利82※セ・記録/通算最多敗戦298※プロ記録、セ・記録/通算最多被安打4120※セ・記録/通算最多与四球1808※プロ記録、セ・記録/シーズン最多与四球197('52)※セ・記録/ゲーム最多与四球10('50.11.4)※セ・記録/通算最多奪三振4490※プロ記録、セ・記録/ゲーム最多奪三振16('67.6.7)セ・記録/通算最多失点1706※セ・記録/最多連続イニング無失点(シーズン)64 1/3('58.4.30~5.27)※プロ記録、セ・記録/通算最多自責点1434※セ・記録 | ロッテ(1973~78、90~91年) | |
090 | 1988年 | 特別 | 横沢 三郎 | よこざわ さぶろう | 台湾・台北市 | プロ野球草創期の名審判 | 巧守巧打の名二塁手として大正12年秋のリーグ戦で明大初優勝に貢献した。昭和4年制度化した東京六大学専属審判員を努め、その間東京クラブの二塁手として都市対抗にも出場4度の優勝を果たす。11年プロ野球東京セネタースの結成及び戦後の新生セネタースの誕生に尽力し監督となる。のちパ審判部長として選手権、オールスターに連続出場、名審判とたたえられる。 | 1904年12月16日 | 1995年11月28日 | 明治大学 | 東京倶楽部 | 東京セネタース(1937秋) | 右投右打 | 二塁手 | 通算1試合、1打数、0安打、0本塁打、0打点、打率.000 | 東京セネタース(1936~37年)、セネタース(46年) | |||
091 | 1988年 | 特別 | 芥田 武夫 | あくた たけお | 兵庫県 | 早大の名外野手 | 早大飛田監督の精神野球で鍛練され名外野手とうたわれた。早慶戦が復活し、六大学リーグが発足した大正14年秋、首位打者を獲得。15年には主将を厂任した。満州クラブをへて昭和8年スポーツ記者として時事新報に入社。10年朝日新聞社に移ってより戦後の困難な時期を通して甲子園大会の運営に尽力された。28年近鉄の監督に迎えられ5年間采配をふるい最下位脱出を果たし、のち同球団社長となる。 | 1903年10月20日 | 1987年9月5日 | 早稲田大学 | 大連満州倶楽部 | 近鉄(1952~57年) | |||||||
092 | 1988年 | 特別 | 永田 雅一 | ながた まさいち | 京都府 | 東京球場をつくる | 昭和23年プロ野球大映チームのオーナーとしてリーグに加盟すると、映画制作同様たちまち球団経営にも行動力を発揮し、24年には二リーグ分立の推進役を果たした。パ・リーグの人気高揚を願い、またフランチャイズ制の理想的な確立を求めて東京球場を建設するなど、球界の発展のため誠心誠意の情熱を注いだ。 | 1906年1月21日 | 1985年10月24日 | 大倉高等商業 | |||||||||
093 | 1989年 | 競技者 | 島 秀之助 | しま ひでのすけ | 兵庫県 | 初代セ・リーグ審判部長 | 攻守走揃った名外野手として、第一神港商業の黄金期を築き、法政昭和5年秋の初優勝。7年秋の優勝にいずれも盗塁王となり貢献。10年名古屋金鯱の結成に加わり選手兼任の監督となる。13年審判員となり、25年からセ・リーグ初代審判部長。37年まで現役をつとめる。名審判の誉高く55年まで審判部長の任にあり権威の確立に大きな業績を残す。34年6月25日初の天覧試合の球審をつとめた。長く野球規則委員として野球界に尽くす。 | 1908年6月21日 | 1995年12月25日 | 第一神港商業→法政大学 | 金鯱(1936~37年) | 右投右打 | 外野手 | 通算120試合、413打数、95安打、1本塁打、33打点、打率.230 | 盗塁王1回('37秋) | ||||
094 | 1989年 | 競技者 | 野村 克也 | のむら かつや | 京都府 | 戦後初の三冠王捕手 | 京都峰山高校から南海のテストを受け昭和29年にプロ入りを果たす。捕手で4番の重責を担い、45年からは監督も兼任。巧みなリード あくなき研究心で48年にリーグ優勝を達成。53年にはロッテ、後西武へと移り55年に引退するまで捕手として闘志を燃やし不滅の3017(捕手で2921)試合出場記録を残した。捕手の三冠王、657本塁打(捕手で650)、は米大リーグにもない偉大な記録である。 | 1935年6月29日 | 2020年2月11日 | 峰山高校 | シダックス(監督) | 南海(1954、56~77年)、ロッテ(78年)、西武(79~80年) | 右投右打 | 捕手 | 通算3017試合、10472打数、2901安打、657本塁打、1988打点、打率.27 | 首位打者1回('65)/最多安打1回('65)/本塁打王9回('57、'61~'68)/打点王7回('62~'67、'72) | 最優秀選手5回('61、'63、'65~'66、'73)/ベストナイン19回(捕 '56~'68、'70~'73、'75~'76)/ゴールデングラブ賞1回(捕 '73)/正力賞1回('93) | 三冠王('65)/本塁打王9回※パ・記録/打点王7回※パ・記録/最優秀選手5回※パ・記録/ベストナイン(捕手)19回※プロ記録、パ・記録/最多実働年数26※プロ記録、パ・記録/通算最多試合出場3017※プロ記録、パ・記録/通算最多打席11970※プロ記録、パ・記録/通算最多打数10472※プロ記録、パ・記録/通算最多安打2901※パ・記録/通算最多本塁打657※パ・記録/通算最多サヨナラ本塁打11※プロ記録、パ・記録/通算最多塁打5315※パ・記録/通算最多長打1077※パ・記録/通算最多打点1988※パ・記録/通算最多犠飛113※プロ記録、パ・記録/シーズン最多故意四球37('68)※パ・記録/通算最多併殺打378※プロ記録、パ・記録/捕手・シーズン最多併殺19('63)※パ・記録/シーズン最多捕逸17('60)※パ・記録 | 南海(1970~77年)、ヤクルト(90~98年)、阪神(1999~2001年)、楽天(06~09年) |
095 | 1989年 | 競技者 | 野口 二郎 | のぐち じろう | 愛知県 | 延長28回完投の鉄腕投手 | 中京商業の速球投手。昭和12年春の選抜準優勝。夏の大会優勝。翌13年春の選抜優勝は史上初の全4試合完封の快挙で飾る。東京セネタースへ入団の14年。33勝を上げ1塁手でも出場。以後内外野手をかねて33勝、25勝、40勝、25勝と超人的奮闘に”鉄腕”と称される。昭和17年には延長28回を完投。阪急に移って21年31試合連続安打達成。引退後も長年コーチとして活躍を続けた。 | 1920年1月6日 | 2007年5月21日 | 中京商業→法政大学 | 東京セネタース(1939年)、翼(40年)、大洋(41~42年)、西鉄(43年)、阪急(1946~53年) | 右投右打 | 投手、外野手 | 通算517試合登板、237勝139敗、1395奪三振、防御率1.96 / 通算1098試合、3348打数、830安打、9本塁打、368打点、打率.248 | 最優秀防御率2回('40~'41)/最多勝利1回('42)/最多奪三振1回('42) | シーズン最多無失点勝利19('42)※プロ記録/シーズン最多無四球試合13('48)※プロ記録 | |||
096 | 1989年 | 特別 | 池田 恒雄 | いけだ つねお | 新潟県 | 出版活動を通じ、野球界の発展に貢献 | 昭和6年、早大在学中より雑誌「野球界」の編集に携わり、12年に編集長となる。戦後21年ベースボールマガジン社を設立。出版を通して野球の発展に貢献するとともに、つねにフェアプレー精神をうったえた。後年オリンピック競技種目の出版を手がけ、東欧の各国と友好関係を築いた功により勲三等瑞宝章を授与さる。昭和61年にはソ連へ野球を紹介して新たな国際交流に尽力している。 | 1911年5月3日 | 2002年2月9日 | 早稲田大学 | |||||||||
097 | 1989年 | 特別 | 伊達 正男 | だて まさお | 大阪府 | 大リーグに挑んだ早大の鉄腕投手 | 市岡中学では春秋各2回甲子園へ出場。早大へ進学の昭和3年春季リーグ戦に捕手5番打者で新人初の首位打者(.469)を獲得。6年春季リーグ早慶戦には投手で出場史上初の3日連投による勝利を遂げ、同年と9年に来日の米大リーグチームをも畏怖せしめ、剛腕投手として名声を博した。卒業後はオール大阪チームに参加、9年都市対抗優勝、甲子園大会の審判員、選考委員、プロ野球阪急のコーチ等を歴任。 | 1911年2月25日 | 1992年8月30日 | 市岡中学→早稲田大学 | 全大阪 | ||||||||
098 | 1990年 | 競技者 | 真田 重藏 | さなだ じゅうぞう | 和歌山県 | ノーヒット・ノーラン2度達成 | 海草中学では捕手。のち三塁手で昭和14年夏の甲子園大会に優勝。投手としては15年夏の大会と同年から17年までの神宮大会を制し名投手といわれた。翌年朝日軍に入団。兵役から復帰後も剛速球とドロップは冴え25年に39勝を上げロビンスのセ・リーグ第一回優勝に貢献し沢村賞を獲得。阪神では2度目の無安打無得点試合を達成。後年、明星高校を率いて38年夏の選手権大会優勝を遂げた。 | 1923年5月27日 | 1994年5月30日 | 海草中学 | 朝日(1943年)、パシフィック(46年)、太陽(47年)、大陽(48~49年)、松竹(50~51年)、阪神(1952~56年) | 右投右打 | 投手 | 通算416試合登板、178勝128敗、1083奪三振、防御率2.83 | 最多勝利1回('50)/最多奪三振1回('46) | ベストナイン2回(投 '48、'50)/沢村賞1回('50) | ノーヒットノーラン2度('48.9.6、'52.5.7)/シーズン最多勝利39('50)※セ・記録/シーズン最多被安打422('46)※プロ記録/ゲーム最多被安打22('46.7.21)※プロ記録/シーズン最多失点202('46)※プロ記録/シーズン最多自責点163('46)※プロ記録 | ||
099 | 1990年 | 競技者 | 張本 勲 | はりもと いさお | 広島県 | 広角打法で3085安打達成 | 幼年期の大火傷で右手に負った不自由を強靭な精神力で克服しプロ野球界の左の大打者となった。浪商時代から天性の素質を見出され 昭和34年東映フライヤーズに入団。同年新人王37年MVPを獲得。広角に放つ打撃で「安打製造機」の異名をとり首位打者7回の最多記録の他、数々の打撃記録をつくった。巨人に4年在籍後55年ロッテに移籍して達成した未曾有の3000本安打は球史に輝く。 | 1940年6月19日 | 浪華商業 | 東映(1959~72年)、日拓(73年)、日本ハム(74~75年)、巨人(76~79年)、ロッテ(80~81年) | 左投左打 | 外野手 | 通算2752試合、9666打数、3085安打、504本塁打、1676打点、打率.319 | 首位打者7回('61、'67~'70、'72、'74)/最多安打3回('70、'72、'76)/最高出塁率9回('62、'64、'67~'70、'72~'74) | 新人王('59)/最優秀選手1回('62)/ベストナイン16回(外 '60~'70、'72~'74、'76~'77) | 首位打者7回※プロ記録、パ・記録/ベストナイン(外野手)16回(パ・記録14回)※プロ記録/通算最多安打3085※プロ記録/サイクル安打('61.5.7)/通算最多故意四球223※パ・記録 | |||
100 | 1990年 | 特別 | 佐伯 勇 | さえき いさむ | 愛媛県 | 近鉄バファローズオーナー | 三高、東京帝大から昭和2年現近畿日本鉄道株式会社に入社。専務取締役であった24年同社に発足した「プロ野球団設立委員会」委員長に就任。プロ野球は二リーグへと分立し新生近鉄パールス(のちバファローズ)は同年11月太平洋野球連盟に加入した。以来球団経営に腐心し創立30周年を初のリーグ優勝で飾り、球界最長の36年に及ぶオーナー在任中広い視野でプロ野球を支えた。 | 1903年3月25日 | 1989年10月5日 | 東京帝国大学 | |||||||||
101 | 1991年 | 競技者 | 牧野 茂 | まきの しげる | 香川県 | 高度なチームプレーを確立 | 昭和21年高松商業から愛知商業へ転入、同年夏の全国大会に出場。明治大学、中日と二塁手遊撃手などで活躍し、36年から巨人軍のコーチとなる。徹底したチームプレー、新戦法を初めて導入し、近代野球を開花させた。巨人軍による史上唯一の9連覇は氏の功績大と評価される。昭和56年巨人軍コーチに復帰、日本シリーズ優勝の功労者となる。 | 1928年7月26日 | 1984年12月2日 | 高松商業→愛知商業→明治大学 | 名古屋(1952~53年)、中日(54~59年) | 右投右打 | 遊撃手 | 通算756試合、2046打数、445安打、9本塁打、134打点、打率.217 | |||||
102 | 1991年 | 競技者 | 筒井 修 | つつい おさむ | 香川県 | 選手から3000試合出場の名審判へ | 松山商業のショート4番打者で昭和10年夏の全国大会初優勝に貢献。発足直後の巨人軍に入り、第2回アメリカ遠征に参加した。主に二塁手として華麗な守備を見せたが、重なる兵役で左手指を失い戦後は審判員に転向。積極的に審判技術の向上と信頼の獲得に努め、25年目の昭和46年9月2日、阪神-広島戦の三塁塁審で審判員初の3000試合出場を達成した。 | 1917年10月12日 | 1990年11月3日 | 松山商業 | 巨人(1936~37、41年) | 右投右打 | 二塁手 | 通算159試合、517打数、118安打、2本塁打、51打点、打率.228 | |||||
103 | 1991年 | 競技者 | 島岡 吉郎 | しまおか きちろう | 長野県 | 神宮を沸かせた名物明大監督 | 明治高校を3度甲子園に出場させた後、昭和27年41歳で母校明治大学野球部監督に就任。以来総監督時代を含め37年、学生野球に対する愛情と情熱は衰えを知らず、島岡式人間力野球を結実させた。東京六大学リーグ戦優勝15回、全日本大学野球選手権大会優勝5回、日米大学野球選手権大会優勝2回を残し、素人監督ながら神宮を沸かせる名物監督となった。 | 1911年6月4日 | 1989年4月11日 | 明治大学 | |||||||||
104 | 1991年 | 特別 | 中澤 良夫 | なかざわ よしお | 東京都 | 春夏甲子園大会の基盤をつくる | 一高三高定期戦以前の三高三塁手。明治39年東京帝大卒業、留学を終え九州帝大、京都帝大教授、京都工芸繊維大学学長など歴任。工業無機化学の日本の権威者。その間大正4年には中等学校野球大会誕生に尽くし、第一回から京滋大会委員長を、以後全国大会副委員長・委員長を経て戦後、昭和23年第二代日本高野連会長に就任。広く精神的支柱となって今日隆盛の基盤を作った。 | 1883年 | 1966年8月28日 | 三高→東京帝国大学 | |||||||||
105 | 1992年 | 競技者 | 廣岡 達朗 | ひろおか たつろう | 広島県 | セ・パ両リーグで日本一監督 | 実力と人気を兼ね備えた遊撃手として早大から昭和29年巨人に入団。同年112試合出場。107安打、本塁打15、打率.314で新人王となりその華麗な守備がさらに人気をよんだ。現役引退後広島ヤクルトのコーチを経て、53年ヤクルト監督として球団史上初のリーグ優勝と日本一を達成した。また昭和57、58年には西武で日本シリーズを制覇し両リーグにわたる優勝で指導力を高く評価された。 | 1932年2月9日 | 三津田高校→早稲田大学 | 巨人(1954~66年) | 右投右打 | 遊撃手 | 通算1327試合、4513打数、1081安打、117本塁打、465打点、打率.240 | 新人王('54)/ベストナイン1回(遊 '54)/正力賞2回('78、'82) | ヤクルト(1976~79年)、西武(82~85年) | ||||
106 | 1992年 | 競技者 | 坪内 道則 | つぼうち みちのり | 愛媛県 | 1000試合、1000安打第一号 | 大東京の俊足・好守・好打の外野手として昭和11年秋季大会から出場時に監督を兼務し、26年の引退(~ゴールドスター~名古屋)まで常に第一線で堅実なプレーを続けた。弱小球団在籍で1000試合出場。1000本安打達成第一号の意義は高い。また戦中戦後もプロ野球健全化のため全力を注ぎ、昭和21年の選手会結成・育成に奮闘した。名古屋監督・西鉄・中日・ロッテのコーチを歴任後は中日寮兼コーチとして長年若手選手を見守り続けた。 | 1914年4月7日 | 1997年9月16日 | 松山商業→立教大学 | 大東京(1936秋~37春)、ライオン(37秋~40年)、朝日(41~44年)、ゴールドスター(46年)、金星(47~48年)、中日(49~50年)、名古屋(51年) | 右投右打 | 外野手 | 通算1417試合、5614打数、1472安打、34本塁打、462打点、打率.262 | 盗塁王2回('41~'42) | ベストナイン2回(外 '47~'48) | シーズン最少三振(300打数以上)6('46)※プロ記録 | 朝日(1944年)、ゴールドスター(46年)、金星(47年)、名古屋(52~53年) | |
107 | 1992年 | 競技者 | 吉田 義男 | よしだ よしお | 京都府 | 今牛若丸と呼ばれた名ショート | 山城高、立命館大学を経て昭和28年阪神に入団。小柄な体が飛燕の如くと讃えられベストナイン9回の遊撃手最多記録をもつ。29・31年には最多盗塁を獲得。打撃においても39年に179打席連続無三振記録を作るなど優れた選球眼を誇りベストテン入り7回をはたす。まさに三拍子揃った名選手として一時代を画した。のち同球団監督に就任し昭和60年にはセパ分立後初の日本一を達成した。 | 1933年7月26日 | 山城高校→立命館大学 | 阪神(1953~69年) | 右投右打 | 外野手 | 通算2007試合、6980打数、1864安打、66本塁打、434打点、打率.267 | 最多安打1回('55)/盗塁王2回('54、'56) | ベストナイン9回(遊 '55~'60、'62、'64~'65)/正力賞1回('85) | ベストナイン(遊撃手)9回※プロ記録、セ・記録 | 阪神(1975~77、85~87、97~98年) | ||
108 | 1992年 | 特別 | 吉田 正男 | よしだ まさお | 愛知県 | 中京商業夏の甲子園3連覇投手 | 昭和6・7・8年と中京商業夏の甲子園大会3連覇達成投手として史上に燦然と輝く。特に8年準決勝戦では明石中学中田投手と見事な投手戦でともに延長25回を完投した。明大では外野手に転じたが六大学野球初の4連覇達成に貢献した。卒業後、藤倉電線の投手で復活し、14年の都市対抗野球大会に優勝、橋戸賞をも獲得しアマチュア野球史に大きな足跡を残した。39年から中日スポーツ新聞記者として野球評論で活躍する。 | 1914年4月14日 | 1996年5月23日 | 中京商業→明治大学 | 藤倉電線 | ||||||||
109 | 1993年 | 競技者 | 稲尾 和久 | いなお かずひさ | 大分県 | シーズン42勝をあげた西鉄の鉄腕エース | 西鉄黄金時代を築き上げた大投手。頭脳的ピッチングと絶妙のスライダーで、新人王、20連続勝利、30勝以上4回、最多奪三振、最優秀防御率など多くのタイトルを獲得し、通算756試合276勝を達成、その鉄腕ぶりを称えられた。中でも昭和36年の78試合登板42勝や、31年から3年連続対巨人日本シリーズでの連投はファンに感動を与え、球史を飾る名勝負となった。引退後、西鉄~太平洋監督、中日コーチ、ロッテ監督を歴任した。 | 1937年6月10日 | 2007年11月13日 | 別府緑が丘高校 | 西鉄(1956~69年) | 右投右打 | 投手 | 通算756試合登板、276勝137敗、2574奪三振、防御率1.98 | 最高勝率2回('57、'61)/最優秀防御率5回('56~'58、'61、'66)/最多勝利4回('57~'58、'61、'63)/最多奪三振3回('58、'61、'63) | 新人王('56)/最優秀選手2回('57~'58)/ベストナイン5回(投 '57~'58、'61~'63)/最優秀投手2回('57~'58) | 最優秀防御率5回※プロ記録、パ・記録/最多勝利4回※パ・記録/ベストナイン(投手)5回※パ・記録/シーズン最多登板78('61)※パ・記録/シーズン最多投球回404('61)※パ・記録/通算最高勝率(投球回2000以上).668※パ・記録/通算最優秀防御率(投球回2000以上)1.98※パ・記録/シーズン最優秀防御率1.06('56)※パ・記録/シーズン最多勝利42('61)※プロ記録、パ・記録/通算最多シーズン20勝以上8※パ・記録/最多連続シーズン20勝以上8('56~'63)※パ・記録/最多連続勝利(シーズン/連続シーズン)20('57.7.18~10.1)※プロ記録、パ・記録/シーズン最多被安打358('63)※パ・記録/シーズン最多奪三振353('61)※パ・記録/投手・シーズン最多守備機会143('57)※パ・記録/投手・シーズン最多捕殺116('57)※パ・記録 | 西鉄(1970~72年)、太平洋(73~74年)、ロッテ(84~86年) | |
110 | 1993年 | 競技者 | 村山 実 | むらやま みのる | 兵庫県 | 2代目ミスタータイガース | 関西大2年の昭和31年、大学日本一になり34年タイガースに入団。同年6月天覧試合以来巨人長嶋との対決がファンを魅了した。37、39年リーグ優勝に貢献。45年には33歳で兼任監督に就任し、戦後最高の防御率0.98を達成した。フォークボールを駆使した力感あふれるザトペック投法で最優秀選手1回、最多勝2回、最優秀防御率3回、沢村賞3回、222勝147敗、防御率2.09。 | 1936年12月10日 | 1998年8月22日 | 住友工高→関西大学 | 阪神(1959~72年) | 右投右打 | 投手 | 通算509試合登板、222勝147敗、2271奪三振、防御率2.09 | 最高勝率1回('70)/最優秀防御率3回('59、'62、'70)/最多勝利2回('65~'66)/最多奪三振2回('65~'66) | 最優秀選手1回('62)/ベストナイン3回(投 '62、'65~'66)/沢村賞3回('59、'65~'66) | 最優秀防御率3回獲得※セ・記録/通算最優秀防御率(投球回2000以上)2.09※セ・記録/シーズン最優秀防御率0.98('70)※セ・記録 | 阪神(1970~72、88~89年) | |
111 | 1994年 | 競技者 | 王 貞治 | おう さだはる | 東京都 | 一本足打法の世界のホームラン王 | 868本の本塁打記録を達成した努力の人。早稲田実業では投手四番打者で昭和32年春の選抜大会に優勝。34年巨人に入団。一本足打法のホームラン打者として9年連続日本一に貢献した。シーズン最多55本塁打。一試合4本塁打(タイ)、本塁打王15回、打点王13回、MVP9回、首位打者5回、2年連続三冠王、ベストナイン18回などプロ野球最多の記録保持者。52年第一回国民栄誉賞受賞。 | 1940年5月20日 | 早稲田実業 | 巨人(1959~80年) | 左投左打 | 一塁手 | 通算2831試合、9250打数、2786安打、868本塁打、2170打点、打率.301 | 首位打者5回('68~'70、'73~'74)/最多安打3回('69~'70、'73)/本塁打王15回('62~'74、'76~'77)/打点王13回('62、'64~'67、'71~'78)、最多出塁12回('67~'78) | 最優秀選手9回('64~'65、'67、'69~'70、'73~'74、'76~'77)/ベストナイン18回(一塁手'62~'79)/ゴールデングラブ賞9回(一塁手'72~'80)/正力賞4回('77、'99、'03、'06) | 三冠王2回('73~'74)/本塁打王15回※プロ記録、セ・記録/打点王13回※プロ記録、セ・記録/最優秀選手9回※プロ記録、セ・記録/ベストナイン(一塁手)18回※プロ記録、セ・記録/通算最多試合出場2831※セ・記録/通算最高長打率(4000打数以上)0.634※プロ記録、セ・記録/通算最多打席11866※セ・記録/通算最多得点1967※プロ記録、セ・記録/通算最多安打2786※セ・記録/サイクル安打('63.4.25)/通算最多本塁打868※プロ記録、セ・記録/シーズン最多本塁打55('64)※プロ記録、セ・記録/ゲーム最多本塁打4('64.5.3)※プロ記録、セ・記録/最多連続試合本塁打7('72.9.11~9.20)※プロ記録、セ・記録/通算最多満塁本塁打15※プロ記録、セ・記録/通算最多サヨナラ本塁打8※セ・記録/通算最多塁打5862※プロ記録、セ・記録/通算最多長打1315※プロ記録、セ・記録/通算最多打点2170※プロ記録、セ・記録/通算最多犠飛100※セ・記録/通算最多四球2390※プロ記録、セ・記録/シーズン最多四球158('74)※プロ記録、セ・記録/通算最多故意四球427※プロ記録、セ・記録/シーズン最多故意四球45('74)※プロ記録、セ・記録/一塁手・シーズン最多守備機会1607('63)※セ・記録/一塁手・シーズン最多刺殺1521('63)※セ・記録/一塁手・最多連続守備機会無失策(シーズン/連続シーズン)991('80.4.25~10.20)※セ・記録 | 巨人(1984~88年)、ダイエー(95~2004年)、ソフトバンク(05~08年) | ||
112 | 1994年 | 競技者 | 与那嶺 要 | よなみね かなめ | ハワイ | ハワイの日系二世 三拍子揃った名外野手 | 「ハワイ・アサヒ」、「SF49ers.」、「ハワイアン・ウォリアーズ」、「ソルトレークシティー・ビーズ」で活躍後昭和26年来日し巨人に入団。MVP1回。首位打者3回。ベストナイン連続7回受賞の名外野手一番打者。始めて見せた走塁とスライディング技術は今日まで継承され、とくに二遊間プレーを強化させた。引退後は監督で49年に中日をリーグ優勝させた。また6球団のコーチを歴任した。日系二世。 | 1925年6月24日 | 2011年2月28日 | フェリントン高校 | 巨人(1951~60年)、中日(61~62年) | 左投左打 | 外野手 | 通算1219試合、4298打数、1337安打、82本塁打、482打点、打率.311 | 首位打者3回('54、'56~'57)/最多安打3回('52、'54、'57) | 最優秀選手1回('57)/ベストナイン7回(外 '52~'58) | イニング最多盗塁3('51.9.12)※プロ記録、セ・記録 | 中日(1972~77年) | |
113 | 1994年 | 特別 | 廣岡 知男 | ひろおか ともお | 大阪府 | 野球のオリンピック参加に貢献 | 大正13年第1回選抜大会と第10回全国大会に市岡中学の遊撃手三番打者として出場。五高では第3回全国高専大会で優勝。帝大に進み昭和6年東京六大学秋季リーグ戦の首位打者となる。朝日新聞社経済部記者を経て同社社長のち会長。高邁な人柄から多くの信望を集め、59年に日本学生野球協会会長に迎えられた。平成3年には全日本アマチュア野球連盟会長をも兼務して、野球のオリンピック正式参加に貢献した。 | 1907年8月24日 | 2002年1月5日 | 市岡中学→五高→東京帝国大学 | |||||||||
114 | 1995年 | 競技者 | 杉浦 忠 | すぎうら ただし | 愛知県 | 日本シリーズ全4戦全勝の南海エース | 昭和32年六大学春秋リーグ戦優勝に貢献した立教大のエース。33年、南海ホークスに入団。下手からコントロールされた速球や大きく曲がるカーブを駆使して27勝を上げ新人王を獲得した。球史に語り継がれる34年のシーズンは38勝4敗。防御率1.40。奪三振336の超人的な成績を残し、日本シリーズでも巨人戦全4試合に登板し4連勝の史上唯一の偉業を達成した。実働13年、187勝106敗、防御率2.39。 | 1935年9月17日 | 2001年11月11日 | 挙母高校→立教大学 | 南海(1958~70年) | 右投右打 | 投手 | 通算577試合登板、187勝106敗、1756奪三振、防御率2.39 | 最高勝率1回('59)/最優秀防御率1回('59)/最多勝利1回('59)/最多奪三振2回('59~'60) | 新人王('58)/最優秀選手1回('59)/ベストナイン1回(投 '59)/最優秀投手1回('59) | 最多連続イニング無失点(シーズン)54 2/3('59.9.15~10.20)※パ・記録 | 南海(1986~88年)、ダイエー(89年) | |
115 | 1995年 | 競技者 | 石井 藤吉郎 | いしい とうきちろう | 茨城県 | アマ球界の強打者から全日本監督へ | 水戸商投手で昭和17年夏文部省主催の甲子園大会に出場。兵役を経て早稲田大に復学し、23年春季リーグ戦から強打の4番打者で活躍。6シーズン中4度の優勝に貢献し、首位打者1回、通算114安打の連盟記録をつくった。卒業後大昭和製紙に入り主力打者、主将としてチームをまとめ、28年都市対抗野球大会優勝、31年世界選手権大会3位を果たした。統率力に優れ水戸商、早大、全日本の監督を長年に亘って歴任した。 | 1924年3月16日 | 1999年6月30日 | 水戸商業→早稲田大学 | 大昭和製紙 | ||||||||
116 | 1995年 | 特別 | 呉 昌征 | ご しょうせい | 台湾・台南市 | 俊足、強肩の名外野手“人間機関車” | 無類の快脚と強肩で人気を博し‘人間機関車’と呼ばれた名外野手。台湾嘉義農林の投手・外野手で春夏の甲子園大会に4度の出場を果たしファンを沸かせた。昭和12年に巨人に入団、最高殊勲選手1回、2年連続首位打者、阪神に移籍した19年には盗塁王を獲得した。さらに21年には投手もつとめノーヒットノーランの快挙を遂げた。25年毎日に移り初の実働20年を記録した。 | 1916年6月28日 | 1987年6月7日 | 嘉義農林 | 巨人(1937~43年)、阪神(44、46~49年)、毎日(50~57年) | 左投左打 | 外野手 | 通算1700試合、4867打数、1326安打、21本塁打、389打点、打率.272 | 首位打者2回('42~'43)/最多安打1回('43)/盗塁王1回('44) | 最優秀選手1回('43) | ノーヒットノーラン('46.6.16) | ||
117 | 1995年 | 特別 | 村上 實 | むらかみ みのる | 大阪府 | プロ野球草創期の阪急球団代表 | 大阪府立旧制天王寺中学で三塁手、主将。慶応大学野球部マネジャーから阪急電鉄に入社後の昭和10年、小林一三オーナーの命を受け阪急球団創設に尽力。12年には自ら監督として指揮したこともあるが、チーム編成、選手契約など25年間球団経営面に功績を残した。25年2リーグ制移行時にも活躍、パ・リーグ理事長に就任。フランチャイズ制確立に貢献した。 | 1906年8月12日 | 1999年5月4日 | 慶応義塾大学 | 阪急(1937秋、39年) | ||||||||
118 | 1996年 | 競技者 | 藤田 元司 | ふじた もとし | 愛媛県 | 巨人のエースから名監督へ | 慶応大卒業後日本石油に入社。昭和31年の都市対抗野球大会で29イニング連続無失点新記録を達成。橋戸賞を受賞し優勝を飾る。巨人入団の32年新人王。33、34年最高殊勲選手賞。34年最多勝を獲得。実働8年。119勝88敗。防御率2.20。コーチ、スカウトを経て2度に亘り巨人監督に就任。リーグ優勝4度、日本シリーズを2度制した。 | 1931年8月7日 | 2006年2月9日 | 新居浜高校→西条北高校→慶応義塾大学 | 日本石油 | 巨人(1957~64年) | 右投右打 | 投手 | 通算364試合登板、119勝88敗、924奪三振、防御率2.20 | 最高勝率2回('58~'59)/最多勝利1回('59) | 新人王('57)/最優秀選手2回('58~'59)/ベストナイン1回(投 '59)/正力賞2回('81、'89) | 巨人(1981~83、89~92年) | |
119 | 1996年 | 競技者 | 衣笠 祥雄 | きぬがさ さちお | 京都府 | 2215試合連続出場の“鉄人” | 平安高の強肩捕手4番打者で春夏の甲子園大会に活躍。昭和40年広島カープへ入団。強打のチームリーダーとして球団初を含む5リーグ優勝と3度の日本シリーズ優勝に貢献した。62年米大リーグ記録を破り2215試合連続出場記録を樹立。“鉄人”と称さる実働23年。通算2677試合、2543安打、504本塁打、打率.270、盗塁王、最優秀選手賞、打点王にも輝く。 | 1947年1月18日 | 2018年4月23日 | 平安高校 | 広島(1965~87年) | 右投右打 | 三塁手、一塁手 | 通算2677試合、9404打数、2543安打、504本塁打、1448打点、打率.270 | 最多安打1回('72)/打点王1回('84)/盗塁王1回('76) | 最優秀選手1回('84)/ベストナイン3回(三 '75、'80、'84)/ゴールデングラブ賞3回(三 '80、'84、'86)/正力賞1回('84) | 最多実働年数23※セ・記録/最多連続試合出場2215('70.10.19~'87.10.22)※プロ記録、セ・記録/通算最多打数9404※セ・記録/サイクル安打('76.7.7)/通算最多死球161※セ・記録/イニング最多死球2('76.8.31)※プロ記録、セ・記録/通算最多三振1587※セ・記録/通算最多併殺打267※セ・記録/一塁手・ゲーム最少守備機会1('74.5.12)※セ・記録/一塁手・ゲーム最少刺殺1('74.5.12)※セ・記録 | ||
120 | 1996年 | 特別 | 牧野 直隆 | まきの なおたか | 鹿児島県 | 第4代高野連会長 | 慶応商工。慶応大と好手巧打の遊撃手、主将として活躍。昭和9年卒業後、第8回都市対抗野球大会で全大阪の優勝に貢献。同年秋鐘紡淀川を創部。その後全鐘紡の総監督として都市対抗野球大会で25年から3連覇の偉業を達成した。一方、24年の日本社会人野球協会設立に尽力。また56年からは日本高等学校野球連盟の第4代会長として高等学校野球の発展と育成を図り、各種の改革を成し遂げた。 | 1910年10月6日 | 2006年7月18日 | 慶応義塾大学 | 全大阪、全鐘紡(監督) | ||||||||
121 | 1996年 | 特別 | 保坂 誠 | ほさか まこと | 中国・満州 | 日本初ドーム球場建設 | 中国旧満州遼陽に生まれる。慶応大卒業後満州中央銀行を経て昭和25年(株)後楽園スタヂアムに入社。53年同社社長に就任。59年には創立50周年記念事業として画期的な屋根付き球場建設を発表。63年に東京ドームが完成した。社名も(株)東京ドームと改称し、ドーム球場の先駆者としてプロ野球の人気を支えている。 | 1910年10月28日 | 1996年6月14日 | 慶応義塾大学 | |||||||||
122 | 1997年 | 競技者 | 大杉 勝男 | おおすぎ かつお | 岡山県 | 両リーグで1000試合、1000安打達成 | 岡山県関西高校卒業後丸井を経て昭和40年東映に入団 50年にはヤクルトへ移籍した 19年に亘って強打者として活躍し史上初の両リーグ1000試合出場。1000本安打を達成。通算2235試合 7763打数 2228安打 486本塁打 1507打点 打率.287。6試合連続本塁打パ・タイ記録。本塁打王2回、打点王2回、ベストナイン5回、ゴールデングラブ賞1回。平成2年には大洋コーチをつとめた。 | 1945年3月5日 | 1992年4月30日 | 岡山関西高校 | 東映(1965~72年)、日拓(73年)、日本ハム(74年)、ヤクルト(75~83年) | 右投右打 | 一塁手 | 通算2235試合、7763打数、2228安打、486本塁打、1507打点、打率.287 | 最多安打1回('71)/本塁打王2回('70~'71)/打点王2回('70、'72) | ベストナイン5回(-'67、'69~'72)/ゴールデングラブ賞1回(-'72) | 最多連続試合本塁打6('73.10.2~10.9)※パ・記録/シーズン最多サヨナラ本塁打3('69)※パ・記録/シーズン最多犠飛15('70)※プロ記録、パ・記録 | ||
123 | 1997年 | 特別 | 山本 英一郎 | やまもと えいいちろう | 岡山県 | 国際派の野球人として活躍 | 台北一中、慶応大、鐘紡で外野手として活躍し、アマ球界の審判員や野球解説者を経て、社会人野球の運営に携わった。国際派球人として知られ、平成4年野球の五輪正式競技実現には国内及び国際機関の統一のため多大な貢献を果たした。 またプロ球界とともに日本野球会議を設立し、青少年の野球人口拡大をすすめた。 平成9年日本野球連盟会長就任。 | 1919年5月12日 | 2006年5月26日 | 慶応義塾大学 | |||||||||
124 | 1998年 | 特別 | 中尾 碩志 | なかお ひろし | 三重県 | 速球派から技巧派へ、通算209勝 | 左腕速球投手の期待を受け昭和14年に京都商業から東京巨人軍に入団。15・16年には26勝。ノーヒットノーランも2度達成するなど戦前の巨人黄金時代に貢献した。戦後は剛腕一辺倒から緩急投法に妙味を発揮し23年に最多勝、沢村賞、最優秀防御率、ベストナインを獲得した。リリーフでも活躍し、32年に引退。巨人コーチ、二軍監督、スカウトを歴任。実働16年 516登板209勝127敗 奪三振1597 防御率2.48。 | 1919年12月1日 | 1977年12月9日 | 日本大学 | 巨人(1939~42、46~57年) | 左投左打 | 投手 | 通算516試合登板、209勝127敗、1597奪三振、防御率2.48 | 最優秀防御率1回('48)/最多勝利1回('48)/最多奪三振2回('41、'48) | ベストナイン1回(投 '48)/沢村賞1回('48) | ノーヒットノーラン2度('39.11.3、'41.7.16) | ||
125 | 1998年 | 特別 | 井口 新次郎 | いぐち しんじろう | 和歌山県 | 和歌山中、早大の名選手 | 和歌山中学、早稲田大の大打者。鳴尾球場における大正10、11年の全国中等学校優勝野球大会連続優勝に貢献し、強力な打撃を誇った。早稲田大でも一年から三塁手4番打者として活躍し、明治大湯浅投手との対決でファンを魅了した。昭和4年に毎日新聞社入社後は春の選抜大会選考委員、社会人野球役員、全日本軟式野球連盟副会長として広くアマチュア球界の発展に尽力した。 | 1904年6月7日 | 1985年9月24日 | 早稲田大学 | |||||||||
126 | 1999年 | 競技者 | 中西 太 | なかにし ふとし | 香川県 | “怪童”と呼ばれた本塁打王 | 高松第一高校から昭和27年西鉄ライオンズに入団。“怪童”と呼ばれた西鉄黄金期の大打者で無類の飛距離を誇るホームランと好守備で人気を博した。新人王、本塁打王5、首位打者2、打点王3、最多安打2、MVP1、ベストナイン7を獲得。通算1388試合4116打数、1262安打、785打点、244本塁打、打率.307、弱冠29才で西鉄監督を兼任し38年にリーグ優勝後7球団を指導した。 | 1933年4月11日 | 2023年5月11日 | 高松第一高校 | 西鉄(1952~69年) | 右投右打 | 三塁手 | 通算1388試合、4116打数、1262安打、244本塁打、785打点、打率.307 | 首位打者2回('55、'58)/最多安打2回('53、'57)/本塁打王5回('53~'56、'58)/打点王3回('53、'56~'57) | 新人王('52)/最優秀選手1回('56)/ベストナイン7回(三 '53~'58、'61) | 西鉄(1962~69年)、日本ハム(74~75年)、阪神(80~81年)、ヤクルト(84年)、ロッテ(94年) | ||
127 | 1999年 | 競技者 | 広瀬 叔功 | ひろせ よしのり | 広島県 | 名外野手で盗塁王 | 南海ホークスの盗塁王。4年連続盗塁王となった昭和39年には連続31盗塁の新記録、リーグ新の27試合連続安打、110得点、首位打者.366と大活躍した。通算盗塁記録は当時最多の596で常に勝利につながる盗塁に徹し、かつ高い成功率を誇った。2190試合、打数7637、安打2157、二塁打394、三塁打88、打率.282、最多安打1回、盗塁王5年連続、ベストナイン3回、南海監督歴3年。 | 1936年8月27日 | 大竹高校 | 南海(1956~77年) | 右投右打 | 外野手 | 通算2190試合、7637打数、2157安打、131本塁打、705打点、打率.282 | 首位打者1回('64)/最多安打1回('63)/盗塁王5回('61~'65) | ベストナイン3回(外 '63~'65)/ゴールデングラブ賞1回(外 '72) | シーズン最多打数626('63)※プロ記録、パ・記録/外野手・シーズン最多守備機会368('63)※パ・記録/外野手・ゲーム最多守備機会10('71.9.19)※パ・記録/外野手・シーズン最多刺殺353('63)※パ・記録/外野手・ゲーム最多刺殺10('71.9.19)※パ・記録 | 南海(1978~80年) | ||
128 | 1999年 | 競技者 | 古葉 竹識 | こば たけし | 熊本県 | カープの黄金時代を築いた名監督 | カープの黄金時代を築いた名監督。日鉄二瀬から昭和33年に広島カープに入団。45年南海に移籍、盗塁王2回、ベストナイン1回獲得。コーチを経て50年にカープの監督に就任したが早くもこの年球団創立後、初のリーグ優勝を果たした。カープ在任11年でリーグ優勝4回、日本シリーズ制覇3度。62年からは3年間横浜大洋監督を務め監督通算873勝利を記録した。 | 1936年4月22日 | 2021年11月12日 | 専修大学 | 日鉄二瀬 | 広島(1958~69年)、南海(70~71年) | 右投右打 | 遊撃手、二塁手 | 通算1501試合、5427打数、1369安打、44本塁打、334打点、打率.252 | 盗塁王2回('64、'68) | ベストナイン1回(遊 '63)/正力賞1回('80) | 広島(1975~85年)、大洋(87~89年) | |
129 | 1999年 | 競技者 | 近藤 貞雄 | こんどう さだお | 愛知県 | 投手分業制を導入 | 西鉄(解散)、巨人、中日の投手。23勝した昭和21年事故で右手中指を負傷したが不自由を克服してパームボールを会得した。現役引退後、長年コーチを務めた後、監督として中日、横浜大洋、日本ハムで指揮を執った。40年代初めには今日すでに一般化した投手の分業制をいち早く導入し57年には中日をリーグ優勝に導いた。 | 1925年10月2日 | 2006年1月2日 | 法政大学 | 西鉄(1943年)、巨人(44、46~47年)、中日(48~50年)、名古屋(51~53年)、中日(54年) | 右投右打 | 投手 | 通算222試合登板、55勝71敗、274奪三振、防御率2.91 | 中日(1967、81~83年)、大洋(85~86年)、日本ハム(89~91年) | ||||
130 | 1999年 | 特別 | 吉國 一郎 | よしくに いちろう | 神奈川県 | 第9代コミッショナー | 第9代プロ野球コミッショナー。平成元年から歴代最多の3期9年在任し数々の功績を残したが、中でもアマチュア球界との交流復活に尽力した功績は大きく、野球の底辺拡大や国際化をめざしプロアマ合同の全日本野球会議として発足させた。またFA制度を導入し、日米日韓交流を深めるなど球界発展に貢献した。 | 1916年9月2日 | 2011年9月2日 | 東京帝国大学 | |||||||||
131 | 2000年 | 競技者 | 米田 哲也 | よねだ てつや | 鳥取県 | 949登板、350勝の“ガソリンタンク” | 境高校卒業後昭和31年阪急に入団。実働22シーズンで949登板、1シーズン2ケタ勝利19年連続のプロ野球記録、歴代2位の350勝利、3388奪三振を達成した。「ガソリンタンク」と呼ばれ、左のエース梶本とともに阪急に米梶時代を築き5回のリーグ優勝に貢献した。MVP、最多勝、最優秀防御率、最多奪三振各1回。50年に阪神、52年に近鉄に移籍。在籍球団のコーチも歴任した。 | 1938年3月3日 | 境高校 | 阪急(1956~75年)、阪神(75~76年)、近鉄(1977年) | 右投右打 | 投手 | 通算949試合登板、350勝285敗2セーブ、3388奪三振、防御率2.91 | 最優秀防御率1回('73)/最多勝利1回('66)/最多奪三振1回('62) | 最優秀選手1回('68) | 通算最多登板914※パ・記録/通算最多投球回4993 1/3※パ・記録/通算最多勝利340※パ・記録/通算最多シーズン20勝以上8※パ・記録/シーズン最多無失点勝利11('58)※パ・記録/通算最多敗戦280※パ・記録/通算最多被安打4561(パ・記録4433)※プロ記録/通算最多与四球1430※パ・記録/通算最多奪三振3316※パ・記録/通算最多ボーク23※パ・記録/通算最多失点1940(パ・記録1895)※プロ記録/通算最多自責点1659(パ・記録1617)※プロ記録 | |||
132 | 2000年 | 特別 | 福島 慎太郎 | ふくしま しんたろう | 東京都 | パ・リーグ会長を2度務めた | 昭和25年セ・パ両リーグ誕生時に毎日オリオンズ球団の社長となる。26・27年にはパ・リーグ会長(輪番制)に就任し、野球協約選手契約システムの作成に尽力し、発足時の地盤固めに務めた。ジャパンタイムズ、共同通信社社長を歴任後、56年同リーグ会長代行、58年に会長に就任し、1シーズン制復活、日本シリーズ指名打者制の隔年採用等実現した。 | 1907年1月15日 | 1987年4月2日 | 東京帝国大学 | |||||||||
133 | 2001年 | 競技者 | 根本 陸夫 | ねもと りくお | 茨城県 | 西武黄金時代の基礎を築く | 法政大学からノンプロを経て昭和27年近鉄に捕手として入団。実働年数は4年と短かったが昭和37年から近鉄、広島でコーチ、昭和43年から広島、クラウンライター、西武、ダイエーの4球団で監督を務めた。その手腕は、現場の指揮官からフロント入りしてさらに発揮された。西武、ダイエーでチームづくりの責任者として、幅広い人脈や行動力を駆使して基礎を築き、のちに訪れる黄金時代に導いた。 | 1926年11月20日 | 1999年4月30日 | 法政大学 | 近鉄(1952~54、57年) | 右投右打 | 捕手 | 通算186試合、370打数、70安打、2本塁打、23打点、打率.189 | 広島(1968~72年)、クラウン(78年)、西武(79~81年)、ダイエー(93~94年) | ||||
134 | 2001年 | 競技者 | 小山 正明 | こやま まさあき | 兵庫県 | 抜群の制球力で歴代3位の320勝 | 昭和28年兵庫県高砂高校卒業後、阪神にテスト入団。右腕からの快速球と針の穴を通すと言われた抜群の制球力を武器に、阪神のエースとして活躍。東京オリオンズに移籍した翌年の昭和39年に、30勝し最多勝を獲得した。実働21年で歴代3位の320勝をはじめ、3159奪三振、防御率2.45を記録した。現役引退後は阪神、西武、ダイエーなど9年にわたりコーチを務め、後進の育成に貢献した。 | 1934年7月28日 | 高砂高校 | 阪神(1953~63年)、東京(64~68年)、ロッテ(69~72年)、大洋(73年) | 右投右打 | 投手 | 通算856試合登板、320勝232敗、3159奪三振、防御率2.45 | 最高勝率1回('62)/最多勝利1回('64)/最多奪三振1回('62) | 沢村賞1回('62) | シーズン最多無失点勝利13('62)※セ・記録/通算最多無四球試合47※セ・記録/シーズン最多無四球試合10('58、'62)※セ・記録 | |||
135 | 2001年 | 特別 | 武田 孟 | たけだ つとむ | 広島県 | 日米大学野球開催に尽力 | 昭和27年、明治大学教授のとき野球部長に就任、島岡吉郎監督と協力し一時代を築いた。昭和33年から39年まで全日本大学野球連盟会長。昭和39年明大総長就任と同時に第4代日本学生野球協会会長となり、学生野球の普及発展に尽力した。また、早くから野球の国際化に理解を示し、昭和47年には長年の懸案であった日米大学野球選手権大会を実現させた。学生時代、母校の校歌「白雲なびく・・・おお明治」の誕生にも奔走した。 | 1896年2月2日 | 1990年10月25日 | 明治大学 | |||||||||
136 | 2001年 | 特別 | 長谷川 良平 | はせがわ りょうへい | 愛知県 | 広島を支えた小さな大投手 | ノンプロから昭和25年、広島カープ創立とともに入団。1年目に早くも15勝をし、以後8年連続2ケタ勝利をあげる。昭和30年には30勝し、最多勝を獲得。身長167cmの小柄ながら切れ味鋭いシュートを駆使して、「小さな大投手」と呼ばれ、エースとして長年にわたりチームを支えた。実働14年で197勝、1564奪三振、防御率2.65を記録した。昭和40年途中から3年間、広島の監督を務めた。 | 1930年3月25日 | 2006年7月29日 | 半田商工 | 広島(1950~63年) | 右投右打 | 投手 | 通算621試合登板、197勝208敗、1564奪三振、防御率2.65 | 最多勝利1回('55) | シーズン最多敗戦27('50)※セ・記録/シーズン最多失点190('50)※セ・記録/ゲーム最多失点14('50.11.9)※セ・記録 | 広島(1965~67年) | ||
137 | 2002年 | 競技者 | 山内 一弘 | やまうち かずひろ | 愛知県 | 大毎ミサイル打線の中心打者 | 昭和27年、毎日に入団し、「打撃の職人」としてミサイル打線の中心打者で活躍。昭和35年には本塁打王と打点王の2冠を獲得し、MVPに選ばれた。昭和38年オフに小山正明選手との「世紀のトレード」で阪神に移籍し、昭和40年7月4日には当時プロ野球史上初の300本塁打を達成した。オールスターに16回出場して大活躍し、「オールスター男」と言われた。指導者としても評価が高く、引退後、巨人、阪神の打撃コーチをはじめ、ロッテ、中日では監督を務めた。 | 1932年5月1日 | 2009年2月2日 | 起工業高校 | 川島紡績 | 毎日(1952~57年)、大毎(58~63年)、阪神(64~67年)、広島(68~70年) | 右投右打 | 外野手 | 通算2235試合、7702打数、2271安打、396本塁打、1286打点、打率.295 | 首位打者1回('57)/本塁打王2回('59~'60)/打点王4回('54~'55、'60~'61) | 最優秀選手1回('60)/ベストナイン10回('54~'57、'59~'63、'68) | 最多連続試合二塁打6('59.6.18~6.25)/イニング最多本塁打2('65.10.3)/ゲーム9打点('59.7.5) | ロッテ(1979~81年)、中日(84~86年) |
138 | 2002年 | 競技者 | 鈴木 啓示 | すずき けいし | 兵庫県 | 近鉄一筋、歴代4位の317勝 | 昭和41年、ドラフト1期生として近鉄に入団。新人で10勝し、翌年からエースとして5年連続20勝以上の成績を残した。昭和43年と昭和46年にノーヒットノーランを達成。近鉄一筋の20年間に歴代4位の317勝、歴代1位の最多無四球試合78を達成。「草魂」の言葉を座右の銘として雑草のようにたくましく、輝かしい記録の数々を打ち立てた。最後の300勝投手と言われ、背番号1はパ・リーグで第1号の永久欠番となっている。 | 1947年9月28日 | 兵庫育英高校 | 近鉄(1966~85年) | 左投左打 | 投手 | 通算703試合登板、317勝238敗2セーブ、3061奪三振、防御率3.11 | 最高勝率1回('75)/最優秀防御率1回('78)/最多勝利3回('69、'77、'78)/最多奪三振8回('67~'72、'74、'78) | ベストナイン3回('69、'75、'78) | 最多奪三振8回/ノーヒットノーラン2度('68.8.8、'71.9.9)/通算最多無失点勝利71/通算最多無四死球試合78/通算最多シーズン20勝以上8/通算最多被本塁打560 | 近鉄(1993~95年) | ||
139 | 2002年 | 競技者 | 福本 豊 | ふくもと ゆたか | 大阪府 | 攻走守三拍子そろった盗塁王 | 昭和44年、松下電器からドラフト7位で阪急に入団。2年目にレギュラーとなり、75盗塁で初めてタイトルを獲得。以来13年連続盗塁王となり「1億円の足」と言われた。昭和47年には106盗塁で日本記録を樹立してMVPに選ばれた。昭和58年6月3日にルー・ブロックの持つ当時の大リーグ記録、通算938盗塁を破った。走、攻、守三拍子そろった小さな大打者として、いずれも歴代1位の通算1065個の盗塁、449二塁打、115三塁打を記録した。 | 1947年11月7日 | 大鉄高校 | 松下電器 | 阪急(1969~88年) | 左投左打 | 外野手 | 通算2401試合、8745打数、2543安打、208本塁打、884打点、打率.291 | 最多安打4回('73~'74、'77~'78)/盗塁王13回('70~'82) | 最優秀選手1回('72)/ベストナイン10回('72~'74、'76~'82)/ゴールデングラブ賞12回('72~'83) | 盗塁王13回/通算最多盗塁1065/シーズン最多盗塁106('72)/ゲーム最多盗塁5('72.5.3)/最多連続試合盗塁11('71.4.27~5.12、'74.4.10~4.28)/通算最多盗塁刺299/通算最多得点1656/通算最多二塁打449/通算最多三塁打115/通算最多初回先頭打者本塁打43/シーズン最多初回先頭打者本塁打8('72)/30試合連続安打('77.5.18~7.10)/サイクル安打('81.5.21) | ||
140 | 2002年 | 競技者 | 田宮 謙次郎 | たみや けんじろう | 茨城県 | 15シーズンで打率3割以上7回 | 日本大学時代は昭和22年秋に首位打者となり投打で活躍。昭和24年阪神に入団し、昭和25年3月16日、国鉄戦で9回2死までパーフェクトに抑える快投を見せる。4年目に野手に転向し、昭和33年には首位打者を獲得した。昭和34年に10年選手制度の権利を行使して、大毎に移籍し「ミサイル打線」の一角を成す。昭和35年には長打力のある2番打者としてリーグ優勝に貢献した。実働15シーズンで7回打率3割以上を達成。 | 1928年2月11日 | 2010年5月5日 | 日本大学 | 阪神(1949~58年)、大毎(59~63年) | 左投左打 | 外野手 | 通算1488試合、4807打数、1427安打、106本塁打、597打点、打率.297 | 首位打者1回('58) | ベストナイン5回('56~'58、'60、'61) | 東映(1970~72年)、日拓(73年) | ||
141 | 2002年 | 特別 | 中澤 不二雄 | なかざわ ふじお | 滋賀県 | パ・リーグ初代専任会長 | 明治大学時代から名遊撃手と言われ、大正2年マニラで開催された第1回極東オリンピックに出場し優勝した。卒業後、造船会社に就職したが野球が忘れられず、大正12年満鉄に移り、大連満州倶楽部の監督兼選手として活躍し、昭和2年、第1回都市対抗野球大会に出場して優勝。戦後は野球評論や解説で活躍し、昭和34年2月パ・リーグの専任会長制度発足と同時に初代会長に就任した。同年6月昭和天皇陛下が御観戦された「天覧試合」ではご説明役を務めた。 | 1892年11月23日 | 1965年6月9日 | 明治大学 | 大連満州倶楽部(監督) | ||||||||
142 | 2002年 | 特別 | 生原 昭宏 (アイク生原) | いくはら あきひろ | 福岡県 | 日米野球交流の中心的役割を果たす | 昭和40年、ドジャースのウォルター・オマリー会長と親交の深い鈴木惣太郎氏の紹介により単身渡米し、ドジャース傘下のスポーケンの用具係からアメリカの野球生活をスタートした。後にドジャースのオーナーに就任するピーター・オマリー氏とは長年行動をともにした間柄で、昭和57年からオーナーの補佐兼国際担当として活躍した。巨人・中日のベロビーチ・キャンプの実現、日米大学野球開催などプロ、アマを問わず幅広い日米野球交流の中心的役割を果した。野球留学生に親身な世話をするなど多くの野球人に慕われた。 | 1937年1月20日 | 1992年10月26日 | 早稲田大学 | |||||||||
143 | 2002年 | 特別(新世紀) | フランク オドール | ふらんく おどーる | アメリカ・カリフォルニア州 | 日本の野球技術向上に尽力 | 昭和6年、大リーグ選抜チームの一員として来日して以来たびたび訪日、学生野球の指導をするなど日本野球の技術向上に貢献した。また、日本のプロ野球創設に協力し、大日本東京野球倶楽部(現在の東京読売巨人軍)の「ジャイアンツ」というニックネームの名付け親でもある。昭和24年、日本野球の復興期にサンフランシスコ・シールズを率いて来日、戦争で十数年間途絶えていた日米野球交流を復活させた。昭和26年にはシールズの春季キャンプに藤村、川上、小鶴、杉下氏を招待し、アメリカ野球を体験させた。昭和35年サンフランシスコ・ジャイアンツのコーチとして随行するなど、永年にわたり日本の野球発展に尽力、「日米の懸け橋」として大きな役割を果たした。 | 1897年3月4日 | 1969年12月7日 | ||||||||||
144 | 2002年 | 特別(新世紀) | 正岡 子規 | まさおか しき | 愛媛県 | 野球を愛した明治の俳人・歌人 | 明治17年、東京大学予備門時代にベースボールを知り、野球に熱中したといわれる。22年7月には、郷里の松山にバットとボールを持ち帰り、松山中学の生徒らにベースボールを教えた。23年2月、『筆まかせ』の雅号の項に「野球」が初めて見られ、幼名「升」から(のぼーる)と読ませている。29年には「日本」新聞に連載された『松蘿玉液』の中で野球のルール、用具、方法などについてくわしく解説している。野球を詠んだ短歌、俳句も数多く見られ、新聞や自分の作品の中で紹介し、野球の普及に多大な貢献をした。「久方のアメリカ人のはじめにしベースボールは見れど飽かぬかも」「今やかの三つのベースに人満ちてそヾろに胸の打ち騒ぐかな」 | 1867年10月14日 | 1902年9月19日 | 松山中学→東京大学予備門→帝国大学文科大学 | |||||||||
145 | 2003年 | 競技者 | 上田 利治 | うえだ としはる | 徳島県 | 熱血指導で阪急を常勝チームに | 関西大学時代には村山 実投手とバッテリーを組み、昭和31年から3年連続して全日本大学野球選手権大会に出場し、黄金時代を築いた。昭和34年捕手として広島に入団。選手生活は3年と短かったが指導力と野球に対する情熱を買われ25歳の若さで広島のコーチとなった。その後、阪急・オリックスの監督時代に、4年連続を含む5度のリーグ優勝を達成した。50年からは3年連続日本一となり、20年の監督生活で1322勝を挙げた。 | 1937年1月18日 | 2017年7月1日 | 関西大学 | 広島(1959~61年) | 右投右打 | 捕手 | 通算122試合、257打数、56安打、2本塁打、17打点、打率.218 | 阪急(1974~78、81~88年)、オリックス(89~90年)、日本ハム(95~99年) | ||||
146 | 2003年 | 競技者 | 関根 潤三 | せきね じゅんぞう | 東京都 | 投手と野手でオールスター出場 | 法政大学時代に来日したサンフランシスコ・シールズ戦に、六大学選抜軍の投手として出場し、延長13回を投げたが2-4で惜敗する。昭和25年に投手として近鉄に入団し、32年からは打者に転向した。防御率ベストテン入り1回、打撃ベストテン入り5回。オールスター出場5回のうち、28年は投手で、38年は打者としてファン投票で選出された。引退後はコーチ、監督として若い選手の育成に努めた。監督を退いてからは、テレビ解説者として、長年に渡り活躍。 | 1927年3月15日 | 2020年4月9日 | 法政大学 | 近鉄(1950~64年)、巨人(65年) | 左投左打 | 投手、外野手 | 通算244試合登板、65勝94敗、645奪三振、防御率3.42 / 通算1417試合、4078打数、1137安打、59本塁打、424打点、打率.279 | 大洋(1982~84年)、ヤクルト(87~89年) | ||||
147 | 2003年 | 特別 | 松田 耕平 | まつだ こうへい | 広島県 | 大リーグを手本に球団改革を推進 | 昭和45年に広島東洋カープのオーナーに就任するや、大リーグの教育リーグへの選手派遣、球団初の海外キャンプの実施、球界初の外国人監督の起用など、大リーグを手本に球団改革を推し進めた。平成2年にはドミニカ共和国に「カープ・ベースボール・アカデミー」を設立、国内外での選手育成に力を注ぐなど先駆的な球団経営を推進した。球団創設26年目の昭和50年に悲願の初優勝を成し遂げ、リーグ優勝6度、日本一に3度輝くなど「赤ヘル黄金時代」を築いた。 | 1922年1月28日 | 2002年7月10日 | 慶応義塾大学 | |||||||||
148 | 2003年 | 特別(新世紀) | ホーレス ウィルソン | ほーれす うぃるそん | 米国メイン州ゴーラム | 明治5年に野球を伝えた“日本野球のルーツ” | 南北戦争に従軍後、お雇い外国人教師として来日する。明治5年に第一大学区第一番中学で英語や数学を教える傍ら生徒に野球を教えた。同校は翌年から開成学校(現東京大学)となり、立派な運動場ができると攻守に分かれて試合ができるまでになった。これが「日本の野球の始まり」といわれている。同校の予科だった東京英語学校(後に大学予備門、第一高等学校)、その他の学校へと伝わり、そこで野球を体験した人達が中心となって野球は日本全国へと広まっていった。現在の繁栄する日本野球の種をまいた人としてその功績は計り知れない。 | 1843年2月10日 | 1927年3月4日 | ||||||||||
149 | 2003年 | 特別(新世紀) | 鈴鹿 栄 | すずか さかえ | 京都府 | 軟式ボールを考案し野球の普及に尽力 | 大正5年に京都市の小学校の教員グループが組織した、京都少年野球研究会に参加し、少年向きの野球ルールと適切なボールの研究開発を試みていた。あるときゴム靴の裏の滑り止めからヒントを得て、ゴムボールに靴底を張り付けたボールを試作した。さまざまな試行錯誤の結果、大正7年に子供のプレーに適した安全で安価な用球としてゴム製少年野球ボールを考案した。大正11年には大人用のボールも製品化され、大人の軟式野球も普及することになった。軟式野球は我が国最大の人口を持つスポーツであり、その普及と発展に対する功績は非常に大きい。 | 1888年10月17日 | 1957年9月1日 | 市立京都商業学校(現:西京商業高校) | |||||||||
150 | 2004年 | 競技者 | 仰木 彬 | おおぎ あきら | 福岡県 | 「イチロー」を誕生させた名監督 | 昭和29年、西鉄に入団して、堅実な守備で1年目からレギュラーとなる。現役引退後、近鉄のコーチを18年つとめ、昭和63年に監督に就任し、翌年には西武、オリックスとまれに見る混戦を制して優勝を果たした。平成6年にオリックスの監督に就任すると、二軍から鈴木一朗を登用、登録名を「イチロー」に変更して、開幕から起用した。平成7、8年とパ・リーグ2連覇し、8年には巨人を破って日本一となった。 | 1935年4月29日 | 2005年12月15日 | 東筑高校 | 西鉄(1954~67年) | 右投右打 | 二塁手 | 通算1328試合、3501打数、800安打、70本塁打、326打点、打率.229 | ベストナイン1回(二'60)/正力賞1回('96) | パ・リーグ最多安打6('55.5.22) | 近鉄(1988~92年)、オリックス(94~2001、05年) | ||
151 | 2004年 | 特別 | 秋山 登 | あきやま のぼる | 岡山県 | 大洋初の日本一に貢献した大エース | 高校、大学、プロを通じて、土井淳との不動のバッテリーで活躍。昭和31年に大洋入団以来、9年連続2ケタ勝利を挙げ、エースとしてチームを支えた。35年には59登板21勝10敗、防御率1.75で大洋初のリーグ優勝に貢献し、最優秀選手賞を獲得した。続く日本シリーズも、大方の予想を覆し、ストレートで大毎を降し、全4戦に登板した秋山は、最優秀投手賞を受賞した。現役引退後、大洋のコーチ、監督を歴任した。 | 1934年2月3日 | 2000年8月12日 | 岡山東高校(現:岡山東商業)→明治大学 | 大洋(1956~67年) | 右投右打 | 投手 | 通算639試合登板、193勝171敗、1896奪三振、防御率2.60 | 最高勝率1回('60)/最優秀防御率1回('60)/最多奪三振1回('57) | 新人王('56)/最優秀選手1回('60)/ベストナイン1回('60) | シーズン最多敗戦27('57) | 大洋(1975~76年) | |
152 | 2005年 | 競技者 | 村田 兆治 | むらた ちょうじ | 広島県 | 豪快な“マサカリ投法”で大活躍 | 昭和43年ドラフト1位で東京オリオンズに入団し、翌年の対南海戦に初先発して完封勝利をかざる。昭和46年フォームを改造。“マサカリ投法”で剛速球とフォークボールを駆使し活躍する。昭和57年に肘を故障し、翌年渡米して手術を受ける。懸命のリハビリの後、約2年半ぶりに公式戦に復帰する。翌昭和60年には開幕から11連勝し、この年17勝5敗を記録した。平成元年のオールスタ―ゲーム第1戦に先発登板し、史上最年長勝利をあげて最優秀選手賞を獲得するなど、復帰後も2ケタ勝利を3度記録する活躍をした。 | 1949年11月27日 | 2022年11月11日 | 福山電波工(現:近大付属福山高) | 東京(1968年)、ロッテ(69~82、84~90年) | 右投右打 | 投手 | 通算604試合登板、215勝177敗33セーブ、2363奪三振、防御率3.24 | 最優秀防御率3回('75~'76、'89)/最多勝利1回('81)/最多セーブ1回('75)/最多奪三振4回('76~'77、'79、'81) | ベストナイン1回('81) | ゲーム16奪三振('76.6.8)/通算最多暴投148/シーズン最多暴投17('90)/イニング最多暴投3('87.6.14) | ||
153 | 2005年 | 競技者 | 森 祇晶 | もり まさあき | 岐阜県 | 日本一3連覇を2度達成した名監督 | 岐阜高校では2年生から4番を打ち、3年生の昭和29年には夏の甲子園大会に出場。翌年巨人軍に入団し、昭和34年からレギュラーとなり、36年から8年連続ベストナインに選ばれる。昭和42年には日本シリーズでMVPを受賞するなど、巨人V9を支えた名捕手。現役引退後ヤクルト、西武のコーチを経て、昭和61年西武監督に就任し、9年間でリーグ優勝8回、日本シリーズ3連覇を2度達成するなど、監督としての手腕を大いに発揮した。西武監督時代の昭和61年と平成2年に正力賞を受賞。 | 1937年1月9日 | 岐阜高校 | 巨人(1955~74年) | 右投左打 | 捕手 | 通算1884試合、5686打数、1341安打、81本塁打、582打点、打率.236 | 正力賞2回('86、'90) | ベストナイン8回 | 西武(1986~94年)、横浜(2001~02年) | |||
154 | 2005年 | 特別 | 志村 正順 | しむら まさより | 東京府(現:東京都) | 野球人気に貢献した名アナウンサー | プロ野球草創期から活躍した名アナウンサー。沢村栄治投手のプロ野球公式戦の活躍を「沢村、左足を靴底のスパイクがはっきり見えるほど、高々と上げました。」と細かく描写し、ラジオで初めて放送した。昭和22年から月刊誌『野球少年』でゲームの推移を実況放送風に文章にした「誌上放送」を執筆し、全国の少年達に野球の楽しさを伝えた。昭和30年からは小西得郎を解説者に迎え、アナウンサーと解説者が組むことで、実況と情景描写に「会話」を加え、聴くだけの放送から参加感のある、新しい野球放送のスタイルを確立した。 | 1913年10月2日 | 2007年12月1日 | 日本大学付属中学校→大正大学予科→明治大学 | |||||||||
155 | 2006年 | 競技者 | 門田 博光 | かどた ひろみつ | 山口県 | 怪我を克服し、史上最年長MVPに | 昭和45年ドラフト2位で南海に入団し、翌年3番に抜擢され、この年打率.300、31本塁打、120打点を記録して打点王を獲得した。昭和54年のキャンプ中にアキレス腱を切断したが、懸命のリハビリにより、翌年には41本塁打を打って復活した。40歳になった昭和63年全試合に出場して、44本塁打、125打点で2冠を獲得し、史上最年長のMVPに選ばれた。通算567本塁打は歴代3位。 | 1948年2月26日 | 天理高校 | クラレ岡山 | 南海(1970~88年)、オリックス(89~90年)、ダイエー(91~92年) | 左投左打 | 指名打者、外野手 | 通算2571試合、8868打数、2566安打、567本塁打、1678打点、打率.289 | 本塁打王3回('81、'83、'88)/打点王2回('71、'88)/最高出塁率3回('81、'87~'88) | 最優秀選手1回('88)/ベストナイン7回(外 '71、'76~'77、指 '81、'83、'88~'89)/正力賞1回('88) | ベストナイン(指名打者)4回※パ記録/5試合連続本塁打('81.7.1~7.7、'81.7.9~7.12)/シーズン最多満塁本塁打4('83)※パ記録/最多連続試合サヨナラ本塁打2('90.9.9~9.10)※プロ記録、パ記録/通算最多四球1237※パ記録/ゲーム最多四球5('88.5.27) | ||
156 | 2006年 | 競技者 | 高木 守道 | たかぎ もりみち | 愛知県 | 攻走守三拍子そろったバックトスの名手 | 昭和34年に県立岐阜商高で選抜高等学校野球大会準優勝し、翌年中日に入団。高校時代から攻走守三拍子を備えた名二塁手で、“いぶし銀”の活躍を見せた。二塁手で7度のベストナインは2リーグ制以降では最多。また「バックトス」の名手といわれゴールデングラブ賞も3回獲得した。盗塁王も3回獲得し、昭和53年には通算2000本安打を達成した。引退後、中日のコーチ、監督を務めた。 | 1941年7月17日 | 2020年1月17日 | 県岐阜商業 | 中日(1960~80年) | 右投右打 | 二塁手 | 通算2282試合、8367打数、2274安打、236本塁打、813打点、打率.272 | 盗塁王3回('63、'65、'73) | ベストナイン7回(二 '63~'67、'74、'77)/ゴールデングラブ3回('74、'77、'79) | ベストナイン(二塁手)7回※プロ記録、セ記録/最多連続打数本塁打4('77.6.12~6.14)※プロ記録、セ記録/初打席本塁打('60.5.7)/ゲーム5盗塁('64.8.5) | 中日(1986、92~95、2012~13年) | |
157 | 2006年 | 競技者 | 山田 久志 | やまだ ひさし | 秋田県 | 独特のサブマリン投法で通算284勝 | 昭和44年ドラフト1位で阪急に入団し、独特のサブマリン投法で翌年には10勝をあげた。以後、17年連続2桁勝利、12年連続開幕投手、投球回数200イニング以上13回、3年連続MVPなど輝かしい足跡を残した。昭和51年には自己最高の26勝をあげるなど、数々の記録をうちたて阪急のエースとして活躍した。引退後、オリックス、中日のコーチを経て中日の監督を務めた。 | 1948年7月29日 | 能代高校 | 富士鉄釜石 | 阪急(1969~88年) | 右投右打 | 投手 | 通算654試合登板、284勝166敗、2058奪三振、防御率3.18 | 最高勝率4回('71、'76、'78~'79)/最優秀防御率2回('71、'77)/最多勝利3回('72、'76、'79 ) | 最優秀選手3回('76~'78)/ベストナイン5回(投 '71~72、'76~'77、'79)/ゴールデングラブ賞5回(投 '77~'79、'81~'82) | 最高勝率4回 ※プロ野球・パ記録/ベストナイン(投手)5回 ※パ記録/シーズン最多被本塁打42 ※パ記録 | 中日(2002~03年) | |
158 | 2006年 | 特別 | 川島 廣守 | かわしま ひろもり | 福島県 | プロ・アマの協調体制を加速させる | 昭和63年、日米野球協定の見直しに着手。その後、日米球界連絡強化策を打ち出し、平成12年3月米大リーグ開幕戦の日本での開催を実現させた。セ・リーグ会長時代からのプロ・アマ協調体制の確立に尽力。平成16年には高野連と「新人選手選択に関する覚書」に調印し、プロ・アマの雪解けを加速させるなど、セ・リーグ会長14年、コミッショナー2期6年の合計20年の長期に亘り、プロ野球界の発展に寄与した。 | 1922年2月27日 | 2012年12月9日 | 中央大学 | |||||||||
159 | 2006年 | 特別 | 豊田 泰光 | とよだ やすみつ | 茨城県 | 西鉄黄金時代にクリーンアップを打つ | 昭和28年西鉄に入団。1年目から遊撃手のレギュラーとなり、打率.281、27本塁打という高卒新人としては、異例の好成績で新人王を獲得した。日本シリーズ3連覇を達成した西鉄黄金時代には、クリーンアップを打ち「大舞台に強い打者」として優勝に貢献した。ベストナイン6回、オールスター出場9回。近鉄のコーチを務めたのち、さまざまなメディアで野球評論家として活躍。 | 1935年2月12日 | 2016年8月14日 | 水戸商業 | 西鉄(1953~62年)、国鉄(63~64年)、サンケイ(65~68年)、アトムズ(69年) | 右投右打 | 遊撃手 | 通算1814試合、6137打数、1699安打、263本塁打、888打点、打率.277 | 首位打者1回('56) | 新人王('53)/ベストナイン6回(遊 '56~'57、'59~'62) | 最多連続試合サヨナラ本塁打2('68.8.24~8.25)※プロ野球・パ記録/ゲーム最多犠飛3('60.9.17)※プロ野球・パ記録 | ||
160 | 2007年 | 競技者 | 梶本 隆夫 | かじもと たかお | 岐阜県多治見市(山梨県甲府市生まれ) | 9連続奪三振の阪急名左腕 | 昭和29年阪急に入団し、高卒ルーキーながら開幕投手となり初勝利をあげる。この年55試合に登板、20勝12敗の好成績をおさめた。実働20年で20勝以上を4回記録。31年は自己最高の28勝をあげ、32年にはゲーム最多連続奪三振9の日本記録を達成した。20年代後半から40年代の阪急を支えた名投手。通算成績867登板は歴代3位、2945奪三振は6位、254勝は9位。 | 1935年4月8日 | 2006年9月23日 | 多治見工 | 阪急(1954~73年) | 左投左打 | 投手 | 通算867試合登板、254勝255敗43セーブ、2945奪三振、防御率2.98 | 最多奪三振2回('56~'57) | ベストナイン1回(投 '56) | 阪急(1979~80年) | ||
161 | 2007年 | 特別 | 松永 怜一 | まつなが れいいち | 福岡県北九州市 | 優れたアマ指導者でロス五輪優勝監督 | 高校、大学、社会人野球の監督として多くの優れた選手、指導者を育てあげ「野球指導者の中の指導者」と言われた。法政大学監督時代には、田淵幸一、山本浩二などを擁しリーグ優勝6回を達成。昭和59年のロス五輪の野球(公開競技)では、全日本チームを率いて金メダルを獲得し、世界アマチュア野球連盟最優秀監督賞を受賞。アマチュア野球界でさまざまな要職を歴任し、野球の普及発展、技術向上に尽力した。 | 1931年11月3日 | 2022年5月12日 | 福岡県立八幡高→法政大学 | 住友金属(監督) | ||||||||
162 | 2008年 | 競技者 | 山本 浩二 | やまもと こうじ | 広島県 | “ミスター赤ヘル”と呼ばれた広島の4番打者 | 大学時代は、田淵、富田と共に「法政三羽ガラス」と呼ばれ、黄金時代を築く。’69年ドラフト1位で広島に入団し、1年目からレギュラー選手として活躍。’75年には打率.319、30本塁打を記録して首位打者を獲得、広島を初優勝に導き、MVPに選ばれる。’77年からは5年連続40本塁打以上をマークし本塁打王を4回獲得するなど「ミスター赤ヘル」と呼ばれ、球界を代表する選手として活躍した。 | 1946年10月25日 | 法政大学 | 広島(1969~86年) | 右投右打 | 外野手 | 通算2284試合、8052打数、2339安打、536本塁打、1475打点、打率.290 | 首位打者1回('75)/本塁打王4回('78、'80~'81、'83)/打点王3回('79~'81)/最多出塁3回('79~'80、'83) | 最優秀選手2回('75、'80)/ベストナイン10回(外 '75、'77~'84、'86)/ゴールデングラブ10回(外 '72~'81) | ベストナイン(外野手)10回※セ記録/サイクル安打('83.4.30)/9打数連続安打('72.7.6~7.8)/外野手・最多連続守備機会無失策(シーズン)302('75.4.5~9.24)※セ記録 | 広島(1989~93、2001~05年) | ||
163 | 2008年 | 競技者 | 堀内 恒夫 | ほりうち つねお | 山梨県 | ルーキーで16勝をあげエースとしてV9に貢献 | 甲府商業から’66年ドラフト1位で巨人に入団。ルーキーで開幕から13連勝を含む16勝2敗、防御率1.39をマークして、新人王、最優秀防御率、最高勝率、沢村賞を獲得。以後、’78年まで13年連続2桁勝利を挙げる。’67年には自ら3打席連続ホームランを打ち、ノーヒットノーランを達成した。’72年には26勝をあげて最多勝を獲得し、MVPに選ばれた。速球と大きく落ちるカーブを武器にエースとして巨人のリーグ優勝12回、日本一9回に貢献した。 | 1948年1月16日 | 甲府商業 | 巨人(1966~83年) | 右投右打 | 投手 | 通算560試合登板、203勝139敗6セーブ、1865奪三振、防御率3.27 | 最高勝率3回('66~'67、'72)/最優秀防御率1回('66)/最多勝利1回('72) | 新人王('66)/最優秀選手1回('72)/ベストナイン2回(投 '72、'74)/最優秀投手2回('72、'74)/沢村賞2回('66、'72)/ゴールデングラブ賞7回(投 '72~'78) | 最高勝率3回 ※セ記録/シーズン最高勝率.889('66)※セ記録/ノーヒットノーラン('67.10.10)/44イニング連続無失点('66.5.30~6.22) | 巨人(2004~05年) | ||
164 | 2008年 | 特別 | 嶋 清一 | しま せいいち | 和歌山県 | 夏の甲子園の準決勝、決勝でノーヒットノーラン | 旧制和歌山県立海草中学の左腕投手として春2回、夏4回甲子園大会に出場。とくに昭和14年の第25回全国中等学校優勝野球大会では全5試合を被安打8、奪三振57の成績で完封。準決勝、決勝では2試合連続ノーヒットノーランを達成という、大会史上初の偉業を達成し、海草中学を初優勝に導いた。明治大学に進学し、将来を嘱望されたが、昭和20年3月インドシナ半島沖で戦死。享年24歳 | 1920年12月15日 | 1945年3月29日 | 海草中学(現:向陽高校)→明治大学 | |||||||||
165 | 2009年 | 競技者 | 若松 勉 | わかまつ つとむ | 北海道 | 生涯打率.319の「小さな大打者」 | ドラフト3位で’71年ヤクルトに入団。小柄ながら抜群のバッティングセンスを持ち、初年度は規定打席未満ながら打率.303をマーク。翌年には打率.329で首位打者を獲得した。以来3割以上を12回獲得し、チームが悲願の日本 一を遂げた’78年には打率.341、17本塁打、71打点を挙げ見事にMVP に選ばれた。通算打率.319は4000打数以上ではセ・リーグトップの記録と なっている。 | 1947年4月17日 | 北海高校 | 電電北海道 | ヤクルト(1971~89年) | 右投左打 | 外野手 | 通算2062試合、6808打数、2173安打、220本塁打、884打点、打率.319 | 首位打者2回('72、'77)/最多安打1回('77) | 最優秀選手1回('78)/ベストナイン9回(外 '72~'74、'76~'80、'84)/ゴールデングラブ2回(外 '77、'78)/正力賞1回('01) | 通算最高打率(4000打数以上).319※セ・記録/通算最多サヨナラ本塁打8※セ・記録/最多連続試合サヨナラ本塁打2('77.6.12~6.13)※プロ記録、セ・記録/サイクル安打('76.7.9) | ヤクルト(1999~2005年) | |
166 | 2009年 | 競技者 | 青田 昇 | あおた のぼる | 兵庫県 | 「じゃじゃ馬」と呼ばれたホームランバッター | '42年滝川中から巨人に入団。42試合の出場ながら打率.355の好成績で中心選手となり、翌’43年には42打点を挙げ打点王に輝いた。戦後は阪急に2年間在籍したが、’48年に巨人に復帰し、大映の小鶴 誠、南海の山本一人 と最終戦まで首位打者を争い7毛差の打率.306でタイトルを獲得。また、25本塁打でチームメイトの川上哲治と本塁打王を分け合った。’51年にも本塁 打王、打点王の二冠を取り、巨人の二リーグ制後初の日本一に貢献した。 | 1924年11月22日 | 1997年11月4日 | 滝川中学 | 巨人(1942~43年)、阪急(46~47年)、巨人(48~52年)、洋松(53~54年)、大洋(55~58年)、阪急(59年) | 右投右打 | 外野手 | 通算1709試合、6566打数、1827安打、265本塁打、1034打点、打率.278 | 首位打者1回('48)/最多安打1回('48)/本塁打王5回('48、'51、'54、'56、'57)/打点王2回('43、'51) | ベストナイン5回(外 '48、'50、'51、'56、'57) | 最多連続打数本塁打4('56.5.6)※プロ記録、セ・記録/サイクル安打('53.4.23) | 大洋(1972~73年) | |
167 | 2009年 | 特別 | 大社 義規 | おおこそ よしのり | 香川県 | 野球とチームを愛した日本ハム初代オーナー | '42年に徳島市で食肉加工業を始め、その後日本ハムと商号を変更した。野球界への参入を考え、旧制高松中学の先輩である三原 脩氏の協力を得て、’73年日拓ホームフライヤーズを買収し、日本ハムファイターズとしてプロ野球に 参戦、初代オーナーに就任した。チームをこよなく愛し、少年ファンクラブの 充実、沖縄キャンプの開拓、育成総合施設「鎌ヶ谷ファイターズタウン」建設 など積極的な球団経営を展開し、パ・リーグの人気振興にも貢献した。 | 1915年2月1日 | 2005年4月27日 | 旧制高松高等商業学校(現香川大学) | |||||||||
168 | 2009年 | 特別 | 君島 一郎 | きみじま いちろう | 栃木県 | 日本野球発祥の研究をし、「日本野球創世記」を著す | 第一高等学校在学中、野球部で二塁手を務め攻守に活躍した。明治時代の野球草創期の故事解明に情熱を持って取り組み、’71年に学士会会報で、野球発祥 については諸説ある中で「ベースボールが日本に渡来したのは明治5年。発祥 の地という場所は現学士会館本館敷地である」との見解を明らかにした。’72年には「日本野球創世記」著し、野球渡来の経緯を皮切りに、わが国の野球の 生い立ちを理論的、また緻密で分かり易く紹介した。 | 1887年4月16日 | 1975年4月25日 | 第一高等学校→東京帝国大学 | |||||||||
169 | 2010年 | 競技者 | 東尾 修 | ひがしお おさむ | 和歌山県 | 通算251勝、ライオンズのエース | '69年に箕島高校からドラフト1位で西鉄入団。2年目に11勝し、以来ライオンズ一筋にエースとして活躍。太平洋時代の’75年に23勝で最多勝と最多奪三振のタイトルを獲得。西武になった後の’83年には最多勝と最優秀防御率を獲得し、MVPに選ばれた。’87年にも再びMVPに選出され、5回の日本シリーズ優勝に貢献した。制球力を生かし、打者の内角を鋭く突くピッチングで通算251勝を挙げた。 | 1950年5月18日 | 箕島高校 | 西鉄(1969~72年)、太平洋(73~76年)、クラウン(77~78年)、西武(79~88年) | 右投右打 | 投手 | 通算697試合登板、251勝247敗23セーブ、1684奪三振、防御率3.50 | 最優秀防御率1回('83)/最多勝利2回('75、'83) /最多奪三振1回('75) | 最優秀選手2回('83、'87) /ベストナイン2回(投 '83、'85)/ゴールデングラブ賞5回(投 '83~'87 | 西武(1995~2001年) | |||
170 | 2010年 | 競技者 | 江藤 慎一 | えとう しんいち | 熊本県 | 史上初の両リーグで首位打者 | 熊本商業から日鉄ニ瀬を経て’59年に中日入団。1年目から130試合に出場し、活躍をした。ファイトあふれるプレーで「闘将」と呼ばれ’64年、’65年と2年連続首位打者を獲得、ロッテ移籍後の’71年にも首位打者となり、日本プロ野球史上初の両リーグでの首位打者となった。プロ野球引退後、静岡県天城湯ヶ島町に「日本野球体育学校」を設立し、アマチュア選手の指導にもあたった。 | 1937年10月16日 | 2008年2月28日 | 熊本商業 | 日鉄二瀬 | 中日(1959~69年)、ロッテ(70~71年)、大洋(72~74年)、太平洋(75年)、ロッテ(76年) | 右投右打 | 外野手、一塁手 | 通算2084試合、7156打数、2057安打、367本塁打、1189打点、打率.287 | 首位打者3回('64、'65、'71)/最高出塁率1回('71) | ベストナイン6回(外 '61、'63~'66、'68) | 太平洋(1975年) | |
171 | 2010年 | 特別 | 古田 昌幸 | ふるた まさゆき | 熊本県 | 都市対抗16回出場「ミスター社会人」 | '56年に立教大学から熊谷組に入社。勝負強い打撃と二塁手として抜群の守備で活躍した。’57年にはデトロイトで行われた第3回世界野球大会に出場し、日本チームとして初の世界一達成に貢献した。都市対抗野球大会には選手、選手兼監督として13年連続を含む16回出場し、3回優勝を達成。アマチュア一筋を貫き、選手引退後も日本野球連盟の要職を歴任し、社会人野球の振興に尽力した。 | 1933年9月30日 | 1999年7月30日 | 立教大学 | 熊谷組(選手、監督) | ||||||||
172 | 2011年 | 競技者 | 落合 博満 | おちあい ひろみつ | 秋田県 | 史上初の三冠王を三度達成 | '79年にドラフト3位でロッテに入団。’81年は打率.326で首位打者を獲得。’82年に史上最年少の28歳で三冠王となる。’85年には打率.367、52本塁打、146打点という驚異的な成績をあげて2度目の三冠王。さらに、翌年も三冠王となり、史上初となる3度の三冠王を達成した。 ’87年中日に移籍後も打点王2回、本塁打王2回を獲得。その後巨人、日本ハムでも活躍した。 |
1953年12月9日 | 秋田工 | 東芝府中 | ロッテ(1979~86年)、中日(87~93年)、巨人(94~96年)、日ハム(97~98年) | 右投右打 | 一塁手、三塁手 | 通算2236試合、7627打数、2371安打、510本塁打、1564打点、打率.311 | 首位打者5回('81~'83、'85~'86)/最多安打1回('82)/本塁打王5回('82、'85~'86、'90~'91)/打点王5回('82、'85~'86、'89~'90)/最多勝利打点3回('82、'85、'88)/最高出塁率7回('82、'85~'88、'90~'91) | 最優秀選手2回('82、'85)/ベストナイン10回(二'81~'82、一'83、'88、'90~'91、三'84~'86、'89)/正力賞1回('07) | 三冠王3回('82、'85~'86)/シーズン最多打点146('85)※パ記録/シーズン最長打率.763(1985)※パ記録/シーズン最高出塁率(1985規定以降).487('86)※日パ記録/ゲーム最多四球6('91.10.13)/12打席連続出塁('91.8.31~9.3)/5試合連続本塁打('89.10.10~10.14)/通算最多打点99※日記録 | 中日(2004~11年) | |
173 | 2011年 | 競技者 | 皆川 睦雄 | みながわ むつお | 山形県 | 南海の黄金時代を支えたサイドスロー | 南海の黄金時代を支えたサイドスロー。小さく曲がるスライダーやシュートを武器に、入団3年目の’56年から’71年の引退までに二桁勝利を12回達成。’62年、’66年に最高勝率をマークした。’68年には31勝で、最多勝、最優秀防御率のタイトルを獲得し、ベストナインを受賞。南海一筋18年で221勝、防御率2.42の成績をあげた。引退後は阪神、巨人、近鉄のコーチを務めた。 | 1935年7月3日 | 2005年2月6日 | 米沢西高校(現・米沢興譲館高校) | 南海(1954~71年) | 右投右打 | 投手 | 通算759試合登板、221勝139敗、1638奪三振、防御率2.42 | 最高勝率2回('62、'66)/最優秀防御率1回('68) /最多勝利1回('68) | ベストナイン1回('68) | |||
174 | 2012年 | 競技者 | 北別府 学 | きたべっぷ まなぶ | 鹿児島県 | 広島3度の日本一に貢献 | ’76年に都城農業からドラフト1位で広島に入団。3年目に10勝をあげ、以来エースとして11年連続二桁勝利をあげる。チームが初の日本一となった’79年は、チーム最多の17勝。’82年に開幕から11連勝、初の20勝をあげ最多勝を獲得、沢村賞にも選ばれる。’86年には最多勝、最優秀防御率、MVPを獲得し、チームのリーグ優勝に貢献、2度目の沢村賞を獲得する。抜群の制球力で、球団初の200勝投手となり、引退後は広島で投手コーチを務めた。 | 1957年7月12日 | 2023年6月16日 | 都城農 | 広島(1976~94年) | 右投右打 | 投手 | 通算515試合登板、213勝141敗5セーブ、1757奪三振、防御率3.67 | 最高勝率3回('85、'86、'91)/最優秀防御率1回('86) /最多勝利2回('82、'86) | 最優秀選手1回('86)/ベストナイン2回(投 '82、'86)/最優秀投手2回('82、'86)/沢村賞2回('82、'86)/ゴールデングラブ賞1回(投 '86) | |||
175 | 2012年 | 競技者 | 津田 恒実 | つだ つねみ | 山口県 | 速球を武器に“炎のストッパー”と呼ばれた | 南陽工業から協和発酵を経て’82年にドラフト1位で広島に入団。1年目から19試合に先発し、11勝6敗で新人王を獲得。肩の故障から復活後’86年にリリーフに転向、4勝22セーブでカムバック賞を受賞。’89年には12勝28セーブで最優秀救援投手のタイトルを獲得した。オールスターにも5回出場、10回1/3を投げ失点0、12奪三振を記録。攻めに徹した投球は、“炎のストッパー”と呼ばれた。’93年7月、脳腫瘍のため32歳の若さで帰らぬ人となった。 | 1960年8月1日 | 1993年7月20日 | 南陽工 | 協和発酵 | 広島(1982~91年) | 右投右打 | 投手 | 通算286試合登板、49勝41敗90セーブ、542奪三振、防御率3.31 | 最高勝率1回('83)/最優秀救援投手1回('89) | 新人王('82) | ||
176 | 2012年 | 特別 | 長船 騏郎 | おさふね きろう | 岡山県 | 全日本アマチュア野球連盟の結成に貢献 | 長年にわたり日本学生野球協会の運営に携わり、全日本大学野球選手権大会、明治神宮野球大会、日米大学野球大会などの開催を手掛けた。学生と社会人による全日本アマチュア野球連盟の結成に貢献し、のちに会長に就任した。また、日本野球界全体の発展を考え、プロ野球との交流を広げるため全日本野球会議の設立にも尽力、プロ野球選手のオリンピック出場の道を拓いた。シドニーオリンピックで、プロ・アマ合同チームを実現し、続くアテネでは野球日本代表チームを派遣する編成委員会委員長を務めた。 | 1924年1月30日 | 2007年9月10日 | 早稲田大学 | |||||||||
177 | 2012年 | 特別 | 大本 修 | おおもと おさむ | 岡山県 | 「アオダモ資源育成の会」を設立 | 高校野球で金属バットが導入されると、その安全基準を定めるなど、製品安全協会の安全管理委員会委員長として、認定基準の審議に尽力。また、プロ野球コミッショナーからの要請により木製バット折損事故防止を研究する「バット問題諮問委員会」の委員長を務め、バット安全問題の権威として野球界に貢献した。さらに、バット材として貴重なアオダモを守るため「アオダモ資源育成の会」を発案。プロ、アマチュアを問わず野球界全体が賛同し、アオダモの植樹が続けられている。 | 1925年4月1日 | 2008年10月15日 | 芝浦工業大学 | |||||||||
178 | 2013年 | 競技者 | 大野 豊 | おおの ゆたか | 島根県 | 80年代の広島黄金時代を支えた左腕 | 軟式野球の出雲信用組合から’77年にドラフト外で広島に入団した左腕投手。先発、リリーフとして活躍。’88年に防御率1.70で最優秀防御率のタイトルを獲得し、沢村賞に選ばれる。’91年に6勝26セーブ32セーブポイントで最優秀救援投手となる。’97年は防御率2.85で2度目の最優秀防御率のタイトルを獲得。実働22年間で広島の3度の日本一と5度のリーグ優勝に貢献した。 | 1955年8月30日 | 出雲商業 | 広島(1977~98年) | 左投左打 | 投手 | 通算707試合登板、148勝100敗138セーブ、1733奪三振、防御率2.90 | 最高優秀防御率2回('88、'97)/最優秀救援投手1回('91) | 沢村賞1回 ('88) | ||||
179 | 2013年 | 競技者 | 外木場 義郎 | そとこば よしろう | 鹿児島県 | 完全試合を含むノーヒットノーラン3度達成 | ’64年に広島に入団。’65年、プロ初勝利をノーヒットノーランで飾る。’68年には完全試合、’72年に3回目のノーヒットノーランを達成。完全試合1回を含む3回の達成はプロ野球史上初となる。’75年には20勝、193奪三振で最多勝、最多奪三振のタイトルを獲得し、沢村賞にも選ばれる活躍で、広島球団創立以来初のリーグ優勝に貢献した。 | 1945年6月1日 | 出水高 | 電電九州 | 広島(1965~79年) | 右投右打 | 投手 | 通算445試合登板、131勝138敗3セーブ、1678奪三振、防御率2.88 | 最優秀防御率1回('68)/最多勝利1回('75)/ 最多奪三振1回('75) | ベストナイン1回('75)/最優秀投手1回('75)/沢村賞1回('75) | 完全試合('68.9.14)/ノーヒットノーラン2度('65.10.2、'72.4.29) | ||
180 | 2013年 | 特別 | 福嶋 一雄 | ふくしま かずお | 福岡県 | 小倉高のエースで夏の甲子園2連覇 | 旧制小倉中学、小倉高校のエースとして夏の甲子園大会2連覇。’47年は全5試合に完投しチームを九州勢初の優勝に導き、翌年も全5試合完封勝利という偉業を達成。早稲田大学から八幡製鐵に入社した’54年の都市対抗野球大会で5試合に登板し、チームに17年ぶり2度目の優勝をもたらした。選手引退後は日本野球連盟理事、日本野球連盟九州地区理事長など要職を歴任。 | 1931年1月6日 | 2020年8月27日 | 早稲田大学 | 八幡製鉄 | ||||||||
181 | 2014年 | 競技者 | 野茂 英雄 | のも ひでお | 大阪府 | トルネード投法で人気を博し日米で活躍 | 新日鐵堺時代に全日本に選出されソウル五輪に出場し、銀メダルを獲得。’90年ドラフト1位で近鉄に入団。“トルネード投法”から繰り出される剛速球とフォークボールを武器に1年目から最多勝、最多奪三振をはじめタイトルを独占し、新人王、MVPに輝く。’95年にロサンゼルス・ドジャースに移籍し、13勝6敗、リーグ最多の236奪三振で新人王に選ばれた。日米通算で201勝。 | 1968年8月31日 | 成城工 | 新日鉄堺 | 近鉄(1990~94年)、ドジャース(95~98年)、メッツ(98年)、ブルワーズ(99年)、タイガース(2000年)、レッドソックス(01年)、ドジャース(02~04年)、デビルレイズ(05年)、ロイヤルズ(08年) | 右投右打 | 投手 | NPB 通算139試合登板、78勝46敗1セーブ、1204奪三振、防御率3.15 / MLB 通算323試合登板、123勝109敗、1918奪三振、防御率4.24 | 最多勝率1回('90)/最多勝利4回('90~'93)/最多奪三振('90~'93) | 新人王('90)/最優秀選手1回('90)/ベストナイン1回('90)/沢村賞1回('90) | 最多勝利4回※パ記録/ゲーム17奪三振('90.4.29)/通算最多2ケタ奪三振70※パ記録/シーズン最多2ケタ奪三振('90)※プロ記録・パ記録/シーズン最多与四球148('93)※パ記録/ゲーム最多与四球16('94.7.1)※プロ記録・パ記録/最多連続与四球(イニング)5('92.7.10)※プロ記録・パ記録 | ||
182 | 2014年 | 競技者 | 秋山 幸二 | あきやま こうじ | 熊本県 | 80、90年代を代表する俊足強打の外野手 | ’81年ドラフト外で西武に入団。 ’87年に43本塁打で本塁打王、 ’89年には“3割、30本塁打、30盗塁”のトリプルスリーを達成した。西武黄金時代の中心選手として、8度のリーグ優勝と6度の日本一に貢献。 ’94年ダイエーに移籍し、’99年には主将としてチームを日本一に導くなど、’80~’90年代の球界を代表する俊足強打の外野手として活躍した。 | 1962年4月6日 | 八代高 | 西武(1981、84~93年)、ダイエー(94~2002年) | 右投右打 | 外野手 | 通算2189試合、7997打数、2157安打、437本塁打、1312打点、打率.270 | 本塁打王1回('87)/最多勝利打点2回('85、'87)/盗塁王1回('90) | ベストナイン8回('86~'93)/ゴールデングラブ賞11回('87~'96、'99)/正力賞3回('91、'11、'14) | サイクル安打('89.7.13)/5試合連続本塁打('85.5.19~5.26、'91.5.4~5.9)/最多連続試合満塁本塁打2('93.8.21~8.22)※プロ記録・パ記録/最多連続試合勝利打点5('87.5.16~5.22)※プロ野球・パ記録/通算最多三振1712※パ記録 | ソフトバンク(2008~14年) | ||
183 | 2014年 | 競技者 | 佐々木 主浩 | ささき かづひろ | 宮城県 | “大魔神”と呼ばれ日米で活躍したクローザー | ’90年ドラフト1位で大洋に入団。’91年からリリーフとして活躍。’95年から4年連続リーグ最多セーブを記録。’98年には抑えとして45セーブをあげ、チームを38年ぶりの日本一に導き、MVPにも選出された。’00年にシアトル・マリナーズに移籍し、37セーブで新人王を獲得。“大魔神”と呼ばれ、フォークボールを武器に日米通算381セーブをあげた。 | 1968年2月22日 | 東北福祉大学 | 大洋(1990~92年)、横浜(93~99年)、マリナーズ(2000~03年)、横浜(04~05年) | 右投右打 | 投手 | NPB 通算439試合登板、43勝38敗252セーブ、851奪三振、防御率2.41 / MLB 通算228試合登板、7勝16敗129セーブ、242奪三振、防御率3.14 | 最優秀救援投手5回('92、'95~'98) | 最優秀選手1回('98)/ベストナイン1回('96)/最優秀投手1回('98)/正力賞1回('98) | 最優秀救援投手5回※プロ記録・セ記録/最多連続試合セーブ22('98.4.26~6.30)※プロ記録・セ記録/シーズン最多セーブポイント46('98)※プロ記録・セ記録/最多連続試合セーブポイント22('98.4.26~6.30)※セ記録/通算最多セーブポイント289※プロ記録・セ記録 | |||
184 | 2014年 | 特別 | 相田 暢一 | あいだ ちょういち | 北海道 | “最後の早慶戦”の実現と戦後の野球復興に尽力 | 早稲田大学野球部に投手として入部し、のちにマネージャーとなる。昭和18年には「出陣学徒壮行早慶戦」実現のため奔走した。また、戦時中にバットやボールを集め保管、戦後これらを各校に配布したことで、早い時期の野球復興が実現した。長年高校、大学、社会人野球の審判人としても活躍。日本学生野球協会、日本高等学校野球連盟、日本社会人野球協会などで数々の要職を歴任するなど、アマチュア野球界の発展に大きな功績を残した。 | 1921年5月19日 | 2012年4月17日 | 早稲田大学 | |||||||||
185 | 2015年 | 競技者 | 古田 敦也 | ふるた あつや | 兵庫県 | ヤクルト一筋の日本を代表する名捕手 | 立命館大学から1988年にトヨタ自動車に入社、同年のソウル五輪で銀メダルを獲得。 ’90 年にドラフト2位でヤクルトに入団。野村克也監督のもと、捕手の英才教育を受け、ベストナイン9回、ゴールデングラブ賞10回受賞。打撃でも2年目に首位打者を獲得し、打率3割以上を8回、通算2,097安打を達成。ヤクルト一筋の現役18 年でMVPを2回受賞するなど、中心選手としてチームをリーグ優勝5回、日本シリーズ優勝4回に導く。 | 1965年8月6日 | 立命館大学 | トヨタ自動車 | ヤクルト(1990~2007年) | 右投右打 | 捕手 | 通算2008試合、7141打数、2097安打、217本塁打、1009打点、打率.294 | 首位打者1回('91)/最多安打1回('93) | 最優秀選手2回('93、'97)/ベストナイン9回('91~'93、'95、'97、'99~'01、'04)/ゴールデングラブ賞10回('90~'93、'95、'97、'99~'01、'04)/正力賞1回('97) | ベストナイン捕手9回※セ記録/ゲーム最多本塁打4('03.6.28)※プロ記録・セ記録/最多連続打数本塁打4('03.6.28)※プロ記録・セ記録/ゲーム最多守備機会19('05.4.6)※セ記録/ゲーム最多刺殺19('05.4.6)※セ記録 | ヤクルト(2006~07年) | |
186 | 2015年 | 特別 | 林 和男 | はやし かずお | 東京都 | 日本リトルリーグ創設に尽力 | 小学生の硬式野球を広めるため 1964年に日本リトルリーグ創設に尽力。’67年に西東京リーグの監督として世界選手権に優勝。’70年には、リトル卒業後から高校まで硬式野球ができる組織がつくれないかと考え、調布シニアを設立。同時に日本リトルシニア野球協会理事長に就任。2000年にはリトルとシニアの協会を統合した全日本リトル野球協会の設立に尽力。’05年からは会長を務め、少年野球の底辺の拡大に貢献し、青少年の健全育成を推進した。 | 1923年12月16日 | 2009年9月11日 | 早稲田大学 | |||||||||
187 | 2015年 | 特別 | 村山 龍平 | むらやま りょうへい | 三重県 | 全国中等学校優勝野球大会を創設 | 1879年に朝日新聞社を設立し、社長在任中の1915年に「全国中等学校優勝野球大会」(現在の全国高等学校野球選手権大会)を創設。大阪府豊中市の豊中グラウンドで開催された第一回大会で始球式を務めた。この全国大会の創設により、中等学校野球が全国に広まる契機となった。その後、全国高等学校野球選手権大会は夏の国民的スポーツイベントとなり、野球人口の裾野を広げ、野球技術の向上に貢献している。 | 1850年5月14日(旧暦 嘉永3年4月3日) | 1933年11月24日 | ||||||||||
188 | 2016年 | 競技者 | 斎藤 雅樹 | さいとう まさき | 埼玉県 | 11試合連続完投勝利の巨人のエース | 1982年ドラフト1位で巨人に入団。89年に11試合連続完投勝利のプロ野球記録をつくり、20勝7敗、防御率1.62で最多勝利、最優秀防御率の2冠を獲得。沢村賞に選ばれ、チームのリーグ優勝、日本一に貢献した。90年にも20勝をあげMVPを獲得。95、96年には2年連続沢村賞に選ばれるなど巨人のエースとして活躍した。最多勝利5回はスタルヒンの6回に次ぐ歴代2位。 | 1965年2月18日 | 市立川口高 | 巨人(1984~2001年) | 右投右打 | 投手 | 通算426試合登板、180勝96敗11セーブ、1707奪三振、防御率2.77 | 最多勝率3回('90、'92、'96)/最優秀防御率3回('89、'90、'96)/最多勝利5回('89、'90、'92、'95、'96)/最多奪三振1回('95) | 最優秀選手1回('90)/ベストナイン5回('89、'90、'92、'95、'96)/最優秀選手5回('89、'90、'92、'95、'96)/沢村賞3回('89、'95、'96)/ゴールデングラブ賞4回('90、'92、'95、'96) | 最高勝率3回※セ記録/最優秀防御率3回獲得※セ記録/最多勝利5回※セ記録/ベストナイン投手5回※セ記録/最多連続試合完投勝利11('89.5.10~7.15)※プロ記録・セ記録 | |||
189 | 2016年 | 競技者 | 工藤 公康 | くどう きみやす | 愛知県 | 西武等3球団で日本一11回の“優勝請負人” | 1981年ドラフト6位で西武に入団。西武黄金期のエース左腕で86年日本シリーズでは投打に活躍しMVPを受賞、翌年もシリーズMVP。西武では11回のリーグ優勝、8回の日本一に貢献した。ダイエーでは99年、巨人でも2000、02年の日本一に貢献。日本シリーズに王 貞治と並ぶ史上最多の14年出場し、うち11回日本一。3球団で日本シリーズの勝利投手になった唯一の選手で“優勝請負人”と呼ばれた。 | 1963年5月5日 | 名古屋電気高 | 西武(1982~94年)、ダイエー(95~99年)、巨人(2000~06年)、横浜(07~09年)、西武(10年) | 左投左打 | 投手 | 通算635試合登板、224勝142敗3セーブ、2859奪三振、防御率3.45 | 最高勝率4回('97、'91、'93、'00)/最優秀防御率4回('85、'87、'93、'99)/最多奪三振2回('96、'99) | 最優秀選手2回('93、'99)/ベストナイン3回('87、'93、'00)/最優秀投手1回('00)/ゴールデングラブ賞3回('94、'95、'00)/正力賞5回('87、'15、'18~'20) | 最高勝率4回※プロ記録/最多実働年数29※プロ記録/イニング最多奪三振4('96.8.2)※プロ記録・パ記録/イニング最多連続与四球5('91.5.23)※プロ記録・パ記録/最多連続打席無安打(連続シーズン)84('00.4.11~'02.7.26)※セ記録 | ソフトバンク(2015年~) | ||
190 | 2016年 | 競技者 | 榎本 喜八 | えのもと きはち | 東京都 | 50~60年代を代表する“安打製造機” | 1955年に毎日入団、高卒新人ながら開幕戦で5番デビューを果たす。同年、146安打、打率.298で新人王を獲得。60年には首位打者、最多安打を記録し、チームのリーグ優勝に貢献した。66年にも首位打者となる。プロ野球史上最年少の31歳7ケ月で2000本安打に到達。大毎ミサイル打線の主軸として活躍し、50~60年代を代表する“安打製造機”といわれた。 | 1936年12月5日 | 2012年3月14日 | 早稲田実 | 毎日(1955~57年)、大毎(58~63年)、東京(64~68年)、ロッテ(69~71年)、西鉄(72年) | 左投左打 | 一塁手 | 通算2222試合、7763打数、2314安打、246本塁打、979打点、打率.298 | 首位打者2回('60、'66)/最多安打4回('60~'62、'66)/最高出塁率1回('66) | 新人王('55)/ベストナイン9回(一'56、'59~'64、'66、'68) | ベストナイン一塁手9回※パ記録/一塁手・シーズン最高守備率.999('68)※パ記録/一塁手・最多連続守備機会無失策(シーズン)1128('68.4.6~9.3)※プロ記録・パ記録/一塁手・最多連続守備機会無失策(連続シーズン)1516('67.8.13~'68.9.3)※プロ記録・パ記録 | ||
191 | 2016年 | 特別 | 松本 瀧蔵 | まつもと たきぞう | 広島県 | 戦後の野球復興に貢献した国際派 | 1929年明大野球部の世界一周遠征にマネージャーとして参加した。戦後、英語力を生かし、選抜高校野球大会の復活などGHQなどとの様々な交渉に携わる。サンフランシスコ・シールズが来日した際には日本側の実行委員長、世界ノンプロ野球選手権大会でも委員長を務める。また49年の社会人野球協会発足時には顧問、55年からは副会長を務め、国際派として戦後の野球復興に貢献した。 | 1901年3月20日 | 1958年11月2日 | 旧制広陵中学 | |||||||||
192 | 2016年 | 特別 | 山中 正竹 | やまなか まさたけ | 大分県 | 六大学最多48勝、バルセロナ五輪代表監督 | 法政大学で一年春から投手として活躍し、東京六大学リーグの歴代最多勝記録となる通算48勝をあげた。住友金属では6年連続で都市対抗に出場、1981年から監督となり82年都市対抗優勝。92年にはバルセロナ五輪の監督として銅メダルを獲得した。94年から法大監督となり、リーグ優勝7回、全日本大学野球選手権大会優勝1回を達成。選手、指導者として活躍し、球界の発展に貢献した。 | 1947年4月24日 | 法政大学 | 住友金属(選手、監督) | |||||||||
193 | 2017年 | 競技者 | 伊東 勤 | いとう つとむ | 熊本県 | 西武黄金期を支えた名捕手 | 1981年ドラフト1位で西武に入団。3年目からレギュラーとなり、80~90年代の西武黄金期を支える捕手となる。パ・リーグ記録となった連続守備機会無失策の堅守と、投手の力を最大限に引き出すリードで、チームのリーグ優勝14回、日本一8回に貢献した。捕手としてベストナイン10回、ゴールデングラブ賞11回を獲得。 | 1962年8月29日 | 熊本工-所沢高 | 西武(1982~2003年) | 右投右打 | 捕手 | 通算2379試合、7050打数、1738安打、156本塁打、811打点、打率.247 | ベストナイン10回('85~'88、'90~'92、'97、'98、'02)/ゴールデングラブ賞11回('85~'88、'90~'92、'94、'95、'97、'98)/正力賞1回('04) | 通算最多犠打305※パ記録/捕手・シーズン最高守備率1.000('97、'03)※パ記録/捕手・最多連続守備機会無失策(シーズン)943('97.4.5~10.12)※パ記録/捕手・最多連続守備機会無失策(連続シーズン)1263('96.9.7~'98.5.27)※パ記録 | 西武(2004~07年)、ロッテ(13~17年) | |||
194 | 2017年 | 競技者 | 星野 仙一 | ほしの せんいち | 岡山県 | 楽天を初の日本一に導いた“闘将” | 1968年ドラフト1位で、中日入団。現役時代は、闘志あふれる投球で人気を集め、74年のリーグ優勝に大きく貢献した。中日監督として、88、99年と2回のリーグ優勝。2003年には阪神監督として、18年振りのリーグ優勝に導いた。11年から楽天の監督となり、13年には球団創設9年目のチームを、初の日本一に導いた。監督として、3球団でのリーグ優勝は史上3人目、17年で1181勝をあげた。 | 1947年1月22日 | 2018年1月4日 | 明治大学 | 中日(1969~82年) | 右投右打 | 投手 | 通算500試合登板、146勝121敗34セーブ、1225奪三振、防御率3.60 | 最高勝率1回('75)/最多セーブ1回('74) | 沢村賞1回('74)/正力賞2回('03、'13) | 中日(1987~91、96~2001年)、阪神(02~03年)、楽天(11~14年 | ||
195 | 2017年 | 競技者 | 平松 政次 | ひらまつ まさじ | 岡山県 | 「カミソリ・シュート」を武器に大洋で201勝 | 1965年の選抜大会に、岡山東商業のエースとして出場し、優勝。社会人野球の日本石油に進み、67年の都市対抗で優勝に貢献し、橋戸賞を獲得した後に、大洋に入団。69年から12年連続2桁勝利をあげ、70年には25勝19敗、6完封、防御率1.95で沢村賞を獲得。「カミソリ・シュート」を武器にエースとして活躍、通算201勝のうち、51勝を巨人からあげ、「巨人キラー」と言われた。 | 1947年9月19日 | 岡山東商 | 日本石油 | 大洋(1967~84年) | 右投右打 | 投手 | 通算635試合登板、201勝196敗16セーブ、2045奪三振、防御率3.31 | 最優秀防御率1回('79)/最多勝利2回('70、'71) | ベストナイン2回('70、'71)/最優秀投手2回('70、'71)/沢村賞1回('70) | 通算最多与死球120※セ記録 | ||
196 | 2017年 | 特別 | 郷司 裕 | ごうし ひろし | 北海道 | アマの名審判で、審判指導者としても貢献 | 明大野球部で、審判として技術を磨き、卒業後は高校、大学、社会人のさまざまな大会で審判を務めた。特に高校野球では、1969年夏の松山商業対三沢高の決勝戦と決勝再試合で球審を務めるなど、春夏を通じ、数多くの審判を任された。現役引退後も、審判員の技術向上に尽力、また、後進の指導にも力を注ぐなど、アマチュア野球界の発展に貢献した。 | 1932年1月19日 | 2006年12月12日 | 明治大学 | |||||||||
197 | 2017年 | 特別 | 鈴木 美嶺 | すずき みれい | 兵庫県 | 日本野球規則委員会で中心的役割を果たす | 1955年12月、プロとアマの野球規則書の合同化が決定し、その編纂委員として参画。規則書の執筆担当者として「1956年度公認野球規則」の発行に尽力。以後亡くなるまでの長い間、「公認野球規則」制作の中心的役割を果たした。また、「わかりやすい公認野球規則」や「野球ルール千夜一夜」など規則に関する書籍を著し、野球規則の正しい理解、普及に努めた。 | 1921年9月3日 | 1991年10月11日 | 東京帝国大学 | |||||||||
198 | 2018年 | 競技者 | 松井 秀喜 | まつい ひでき | 石川県 | “ゴジラ”の愛称で親しまれたスラッガー | "ゴジラ"の愛称で親しまれた、平成を代表するスラッガー。星稜高校から、1992年ドラフト1位で巨人に入団。在籍10年間で、首位打者1回、本塁打王3回、打点王3回のタイトルを獲得し、チームのリーグ優勝4回、日本一3回に貢献した。2003年、ヤンキースに移籍。09年には、ワールドシリーズでMVPを受賞。日米通算で507本塁打を記録、チームの主軸として活躍した。 | 1974年6月12日 | 星稜高 | 巨人(1993~2002年)、ヤンキース(03~09年)、エンゼルス(10年)、アスレチックス(11年)、レイズ(12年) | 右投左打 | 外野手 | NPB 通算1268試合、4572打数、1390安打、332本塁打、889打点、打率.304 / MLB 通算1236試合、4442打数、1253安打、175本塁打、760打点、打率.282 | 首位打者1回('01)/本塁打王3回('98、'00、'02)/打点王3回('98、'00、'02)/最高出塁率3回('98、'00、'02) | 最優秀選手3回('96、'00、'02)/ベストナイン8回('95~'02)/ゴールデングラブ賞3回('00~02)/正力賞1回('00) | 最多連続試合出塁65('01.5.5~8.3)※セ記録/5試合連続本塁打('99.6.5~6.10)/1250試合連続出場('93.8.22~'02.10.11)/574試合連続全イニング出場('95.5.30~'99.7.22) | |||
199 | 2018年 | 競技者 | 金本 知憲 | かねもと ともあき | 広島県 | 1492連続試合全イニング出場の“鉄人” | 1991年ドラフト4位で広島に入団。2000年には、打率.315、30本塁打、30盗塁で、史上7人目のトリプルスリーを達成。03年、阪神に移籍し、同年と05年のリーグ優勝に貢献、05年にはMVPを受賞した。99年から10年まで、大リーグ記録を上回る1492最多連続試合全イニング出場を達成するなど、"鉄人"と呼ばれ、常にチームの中心選手として活躍した。 | 1968年4月3日 | 東北福祉大学 | 広島(1992~2002年)、阪神(03~12年) | 右投左打 | 外野手 | 通算2578試合、8915打数、2539安打、476本塁打、1521打点、打率.285 | 打点王1回('04) | 最優秀選手1回('05)/ベストナイン7回('95、'00、'01、'04~'06、'08) | 最多連続試合フルイニング出場1492('99.7.21~'10.4.17)※プロ記録・セ記録/最多連続打席無併殺打(連続シーズン)1002('00.5.12~'01.9.28)※プロ記録・セ記録/サイクル安打('99.4.24)/1766試合連続出場('98.7.10~'11.4.14) | 阪神(2016~18年) | ||
200 | 2018年 | 競技者 | 原 辰徳 | はら たつのり | 神奈川県 | 巨人監督で3度日本一、第2回WBC優勝監督 | 東海大相模高校、東海大学を経て、1980年ドラフト1位で巨人に入団。81年リーグ優勝、日本一に貢献し、新人王に選ばれた。83年には打点王を獲得、MVPを受賞しチームをリーグ優勝に導く。引退後は、巨人の監督を通算12年務め、リーグ優勝7回、日本一3回を達成。また、2009年の第2回WBCでは、日本代表監督として、チームを連覇に導いた。 | 1958年7月22日 | 東海大学 | 巨人(1981~1995年) | 右投右打 | 三塁手、外野手 | 通算1697試合、6012打数、1675安打、382本塁打、1093打点、打率.279 | 打点王1回('83)/最多勝利打点2回('82、'83) | 新人王('81)/最優秀選手1回('83)/ベストナイン5回(三'83、'87、'88、外'90、'91)/ゴールデングラブ賞2回('87、'88)/正力賞3回('02、'09、'12) | 通算最多勝利打点91※セ記録/シーズン最多犠飛12('91)※セ記録/イニング最多本塁打2('85.5.12)※プロ記録・セ記録 | 巨人(2002~03、06~15、19年~) | ||
201 | 2018年 | 特別 | 瀧 正男 | たき まさお | 愛知県 | 中京商で選手、指導者として春・夏全国優勝 | 中京商業の選手として、1937年夏、38年春の甲子園大会で優勝。戦後は、同校指導者として、54年夏、56年春に優勝、選手・指導者の両方で、春夏の甲子園大会で優勝を成し遂げた。56年から中京大学野球部長・監督となり、愛知大学野球リーグ戦で、28回優勝。70年には、全日本大学野球選手権大会で、東海勢として初めて優勝し、日本一となる。指導者の育成にも力を注ぎ、アマチュア野球界の発展に貢献した。 | 1921年9月8日 | 2012年4月2日 | 名古屋高等商業学校(現 名古屋大学経済学部) | |||||||||
202 | 2019年 | 競技者 | 立浪 和義 | たつなみ かずよし | 大阪府 | 中日一筋、通算2480安打の名内野手 | PL学園高校の主将として、1987年に甲子園春夏連覇を達成。同年、ドラフト1位で中日に入団。88年、110試合に出場し、チームのリーグ優勝に貢献。新人王を獲得し、高卒新人として史上初めてゴールデングラブ賞を獲得した。以来、攻守にわたる活躍で、99年、2004年、06年のリーグ優勝、07年の日本一に貢献した。通算2480安打、歴代1位となる487二塁打の成績を残し、中日一筋で、中心選手として活躍した。 | 1969年8月19日 | PL学園高 | 中日(1988~2009年) | 右投左打 | 二塁手、三塁手、遊撃手 | 通算2586試合、8716打数、2480安打、171本塁打、1037打点、打率.285 | 新人王('88)/ベストナイン2回('96、'04)/ゴールデングラブ賞5回('88、'95~'97、'03) | 通算最多二塁打487※プロ記録・セ記録/サイクル安打('97.8.22) | ||||
203 | 2019年 | 競技者 | 権藤 博 | ごんどう ひろし | 佐賀県 | 98年、監督として横浜を日本一に導く | 中日に入団した1961年に最優秀防御率、最多勝利、最多奪三振のタイトルを獲得し、翌年も最多勝利。連投に次ぐ連投の活躍から、「権藤、権藤、雨、権藤」といわれた。引退後、中日、近鉄、ダイエーの3球団で投手コーチを歴任し、97年横浜のバッテリーコーチを経て、98年監督に就任。“マシンガン打線”と呼ばれる切れ目のない強力な攻撃陣と、盤石な分業制の投手陣をまとめあげ、チームを38年ぶりのリーグ優勝、日本一に導いた。 | 1938年12月2日 | 鳥栖高 | ブリヂストンタイヤ | 中日(1961~68年) | 右投右打 | 投手、三塁手 | 通算210試合登板、82勝60敗、667奪三振、防御率2.69 / 通算483試合、1041打数、214安打、18本塁打、85打点、打率.206 | 最優秀防御率1回('61)/最多勝利2回('61、'62)/最多奪三振1回('61) | 新人王('61)/ベストナイン1回('61)/沢村賞1回('61) | シーズン最多投球回429.1回('61)※セ記録 | 横浜(1998~2000年) | |
204 | 2019年 | 特別 | 脇村 春夫 | わきむら はるお | 東京都 | プロ・アマ交流の礎を築いた高野連会長 | 1949年夏、湘南高校の甲子園初出場、初優勝に貢献。卒業後、東京大学に進学し、4年次には主将を務める。その後、社会人の東洋紡富田に進み、55年の都市対抗ベスト8に貢献。2002年に第5代高野連会長に就任すると、04年にプロ野球と「新人選手選択に関する覚書」に調印。また、全国でプロ野球現役選手によるシンポジウム「夢の向こうに」を開催するなど、プロ・アマ関係の交流促進の礎を築いた。 | 1932年1月15日 | 東京大学 | 東洋紡富田 | |||||||||
205 | 2020年 | 競技者 | 田淵 幸一 | たぶち こういち | 東京都 | 阪神、西武で474本塁打を放った | 山本浩二、富田勝と共に「法政三羽ガラス」の一人として法政大学黄金時代を築く。1968年、ドラフト1位で阪神に入団。翌年、22本塁打の活躍で新人王を受賞。75年には43本塁打を放ち本塁打王を獲得するなど、強肩強打の捕手として活躍した。西武に移籍後は82、83年の日本一に貢献。通算474本塁打を放ち「ホームランアーチスト」と呼ばれた。引退後はダイエー監督を務めた後、星野仙一監督を支え、阪神・北京五輪日本代表・楽天のコーチを歴任した。 | 1946年9月24日 | 法政大学 | 阪神(1969~78年)、西武(79~84年) | 右投右打 | 捕手、指名打者 | 通算1739試合、5881打数、1532安打、474本塁打、1135打点、打率.260 | 最多本塁打1回('75) | 新人王('69)/ベストナイン5回('72~76)/ゴールデングラブ賞2回('73、'74)/正力賞1回('83) | ダイエー(1990~92年) | |||
206 | 2020年 | 特別 | 前田 祐吉 | まえだ ゆうきち | 高知県 | 慶大監督を経て、アジア野球連盟事務局長を務めた | 高知城東中学、慶應義塾大学で活躍。ニッポンビールを経て、1960年に慶大監督に就任し、同年秋の「早慶六連戦」を指揮した。82年監督に復帰すると、85年秋にはリーグ戦10勝1分で無敗優勝を飾るなど、チームを復活させた。「エンジョイ・ベースボール」をモットーに、監督在任18年で8回の優勝。97年から2006年まで、アジア野球連盟事務局長として野球途上国の支援を行うなど、国際的な野球の普及に貢献した。 | 1930年9月22日 | 2016年1月7日 | 慶応義塾大学 | ニッポンビール(選手、監督) | ||||||||
207 | 2020年 | 特別 | 石井 連藏 | いしい れんぞう | 茨城県 | 早大監督を務め、日米大学野球開催に尽力 | 早稲田大学では、1954年秋季リーグ戦で首位打者を獲得し優勝に貢献するなど、主将・エース・四番打者として活躍。日本鋼管を経て、58年早大監督に就任。60年秋には「早慶六連戦」を制し、逆転優勝に導く。退任後は、72年の日米大学野球選手権大会の創設に尽力。88年早大監督に復帰すると、90年春に15シーズンぶりのリーグ優勝に導く。監督在任13年で4回の優勝。厳しい指導で多くの後進を育成した。 | 1932年6月26日 | 2015年9月27日 | 早稲田大学 | 日本鋼管 | ||||||||
208 | 2021年 | 特別 | 川島 勝司 | かわしま かつじ | 栃木県 | 都市対抗3度優勝、アトランタ五輪代表監督 | 1967年日本楽器、68年河合楽器(補強選手として)で都市対抗野球大会に出場し、2年連続優秀選手に選出。72年に日本楽器の監督に就任すると、その年の都市対抗でチームを初優勝に導く。その後、87年、90年と都市対抗優勝を果たした。監督として3度の都市対抗優勝は史上最多。88年ソウル・オリンピック日本代表コーチを務め、96年アトランタ・オリンピック日本代表監督として出場、銀メダルを獲得した。2000年にトヨタ自動車の監督、03年に総監督に就任し、チームを社会人野球日本選手権で3度の優勝に導いた。日本野球連盟、全日本アマチュア野球連盟にて要職を務めるなど、アマチュア野球の競技力向上と指導者の育成に尽力した。 | 1943年4月17日 | 群馬県立桐生高等学校、中央大学 | 日本楽器(現在のヤマハ 選手、監督)、トヨタ自動車(監督、総監督) | |||||||||
209 | 2021年 | 特別 | 佐山 和夫 | さやま かずお | 和歌山県 | ノンフィクション作家、日本高野連顧問 | 野球史をわかりやすく伝えるノンフィクション作家。1984 年、ニグロリーグの伝説の投手、サチェル・ペイジを描いた「史上最高の投手はだれか」 、 93 年には 「 野球とクジラ 」 など日米の野球史に関する著書を多数著した。また、 98 年には「伝説のレフティ・オドール」 の翻訳も行うなど、野球史の発信に大きく貢献した。 99 年に日本高等学校野球連盟顧問に就任すると、 2001 年に設けられた「 21 世紀枠」の創設に関わるなど、高校野球の発展に寄与した。 | 1936年8月18日 | 和歌山県立田辺高等学校、慶應義塾大学 | ||||||||||
210 | 2022年 | 競技者 | 髙津 臣吾 | たかつ しんご | 広島県 | 日米通算313セーブを挙げた守護神 | 1990年ドラフト3位でヤクルトに入団。93年から抑えに定着し、サイドスローの守護神として93、95、97、2001年の日本一に貢献。03年には、当時の通算最多セーブ記録を更新した。04年にホワイトソックスに入団すると、同年19セーブを挙げる活躍を見せた。06年、ヤクルトに復帰し、日米通算300セーブを達成。以後、韓国、台湾、独立リーグなどでもプレーした。引退後は、20年よりヤクルト監督を務め、21年にはチームを20年ぶりの日本一へ導いた。 | 1968年11月25日 | 亜細亜大 | 東京ヤクルトスワローズ(1991~2003年)、シカゴ・ホワイトソックス(2004~2005年)、ニューヨーク・メッツ(2005年)、シカゴ・カブス(2008年)、韓国 ウリヒーローズ(2008年)、サンフランシスコ・ジャイアンツ(2009年)、台湾 興農ブルズ(2010年)、新潟アルビレックス・ベースボール・クラブ(2011~2012年 ※2012年は兼任監督) | 右投右打 | 投手 | NPB 15シーズン 598試合 36勝46敗286セーブ 防御率3.20/ MLB 2シーズン 99試合 8勝6敗27セーブ 防御率3.38/ KBO 1シーズン 18試合 1勝0敗8セーブ 防御率 0.86/ CPBL 1シーズン 40試合1勝2敗26セーブ 防御率 1.88 | 正力賞(2021) | 最優秀救援投手4回(1994、99、2001、03) | 東京ヤクルトスワローズ コーチ、2軍監督(2014~2019年)、東京ヤクルトスワローズ 監督(2020年~) | |||
211 | 2022年 | 競技者 | 山本 昌広 | やまもと まさひろ | 神奈川県 | 最年長勝利を挙げた、中日一筋32年の200勝投手 | 1983年ドラフト5位で入団。スクリューボールを武器に、93年には17勝を挙げ最多勝利、最優秀防御率、最高勝率のタイトルを獲得。翌年も最多勝利を獲得し、沢村賞を受賞した。2006年には史上最年長(41歳1か月)でノーヒットノーランを達成するなど、リーグ優勝に貢献。08年に通算200勝、14年には史上最年長勝利(49歳0か月)を達成した。ドラゴンズ一筋32年の左腕投手で、引退表明後の最終登板にて、史上初めて50代での登板(50歳1か月)を記録した。 | 1965年8月11日 | 日大藤沢 | 中日ドラゴンズ(1984~2015年) | 左投左打 | 投手 | NPB 29シーズン581試合 219勝165敗 5セーブ 防御率3.45 | ベストナイン2回、最優秀投手2回、沢村賞1回 | 最高勝率1回(1993)、最優秀防御率1回(1993)、 最多勝利3回(1993~94、97)、最多奪三振1回(1997)、 ノーヒットノーラン1回(2006年9月16日)、 最多実働年数 29(日、セ記録) | ||||
212 | 2022年 | 特別 | 松前 重義 | まつまえ しげよし | 熊本県 | 首都大学野球連盟を設立。野球の国際化にも尽力 | 1946年に旧制東海大学、50年に新制東海大学を開校。52年より理事長、学長、総長などを歴任。51年武蔵野グリーンパーク球場を開設した。64年東海大学をはじめとする7大学で首都大学野球連盟を設立し、初代会長に就任した。ソ連や東欧諸国との民間外交にも積極的に取り組み、モスクワ大学に松前記念スタジアムを寄贈するなど、野球の国際化に尽力した。日本学生野球協会副会長などの要職を歴任し、学生野球の発展に貢献した。 | 1901年10月24日 | 1991年8月25日 | 東北帝国大学(現 東北大学) | |||||||||
214 | 2023年 | 競技者 | R. バース | ランディ・バース | アメリカ・オクラホマ州 | 阪神優勝の立役者となった最強助っ人 | 1983年阪神に入団。85年には猛打でチームをけん引し、打率.350、54本塁打、134打点で三冠王とMVPに輝く。日本シリーズでも3試合連続本塁打の活躍でチーム初の日本シリーズ制覇に貢献し、シリーズMVPを獲得した。翌86年も7試合連続本塁打の日本タイ記録樹立など勢いは止まらず、打率.389、47本塁打、109打点で2年連続三冠王となった。この打率.389は、プロ野球のシーズン最高打率となっている。 | 1954年3月13日 | ロートン高 | ツインズ(1977年)、ロイヤルズ(1978年)、エクスポズ(1979年)、パドレス(1980~1982年)、レンジャーズ(1982年)、阪神タイガース(1983~1988年) | 右投左打 | 内野手 | 通算614試合、2208打数、743安打、486打点、202本塁打、打率.337 | 首位打者2回('85~'86)/最多安打2回('85~'86)/本塁打王2回('85~'86)/打点王2回('85~'86)/最多勝利打点1回('85)/最高出塁率2回('85~'86) | 最優秀選手1回('85)/ベストナイン3回('85~87) | 三冠王2回('85~'86)/シーズン最高打率 .389('86)※日・セ記録/最多連続打数本塁打4('86.5.31~6.1)※日・セ記録/最多連続試合本塁打7('86.6.18~6.26)※日・セ記録/最多連続試合打点13('86.6.18~7.4)※日・セ記録 | |||
213 | 2023年 | 競技者 | A. ラミレス | アレックス・ラミレス | ベネズエラ | 2年連続でMVPに輝き、2000安打も達成 | 2001年ヤクルトに入団。03年に初めて本塁打と打点の二冠を獲得し、07年には当時のリーグ新記録となる204安打を放った。08年巨人に移籍し、同年のリーグ優勝、09年の日本一に貢献し、連続してリーグMVPを受賞した。12、13年はDeNAでプレーし、海外出身選手として初の2000安打を達成した。明るい人柄とパフォーマンスでも人気を集めた。引退後、16年に監督としてDeNAに復帰。17年にはクライマックスシリーズを勝ち抜き、チームを日本シリーズへと導いた。 | 1974年10月3日 | サンアントニオデパウラ高校 | インディアンス(1998~2000年)、パイレーツ(2000年)、東京ヤクルトスワローズ(2001~2007年)、読売ジャイアンツ(2008年~2011年)、横浜DeNAベイスターズ(2012年~2013年) | 右投右打 | 外野手 | 通算1744試合、6708打数、2017安打、1272打点、380本塁打、打率.301 | 首位打者1回('09)/最多安打3回('03、'07、'09)/本塁打王2回('03、'10)/打点王4回('03、'07~'08、'10) | 最優秀選手2回('08~'09) ベストナイン4回('03、'07~'09) | 最多連続試合二塁打6('10.9.4~9.11)※セ記録/5試合連続本塁打('03.4.13~4.18) | 横浜DeNAベイスターズ(2016年~2020年) | ||
215 | 2023年 | 特別 | 古関 裕而 | こせき ゆうじ | 福島県 | 時代を超える多くの応援歌を作曲 | 1930年日本蓄音器商会に入社。31年に早稲田大学の応援歌「紺碧の空」、「日米野球行進曲」を作曲し、スポーツに関する曲を作り始める。36年に「大阪タイガースの歌」(通称:六甲おろし)を作曲。48 年には全国高等学校野球選手権大会歌「栄冠は君に輝く」の 作曲を担当した。慶應義塾大学応援歌「我ぞ覇者」、「巨人軍の歌~闘魂こめて~」なども作曲し、それらの楽曲は現在も広く歌い継がれている。作曲家として音楽を通じ日本野球の隆盛に貢献した。 | 1909年8月11日 | 1989年8月18日 | 福島商業 | |||||||||
216 | 2024 | 競技者 | 谷繁 元信 | たにしげ もとのぶ | 広島県 | 横浜、中日で通算3021試合出場の名捕手 | 1988年ドラフト1位で大洋に入団。投手の持ち味を引き出すリードで、98年には横浜の38年ぶりの日本一に貢献した。2002年に中日へ移籍し、司令塔として4度のリーグ優勝、07年には53年ぶりの日本一となったチームを支えた。13年には通算2000本安打を達成。実働27年で、日本記録となる通算3021試合に出場。捕手として2963試合出場は歴代1位。14年から2年間は中日の選手兼任監督、16年は監督としてチームを率いた。 | 1970年12月21日 | 江の川高(現 石見智翠館高) | 横浜大洋ホエールズ(1989~1992)、横浜ベイスターズ(1993~2001)、中日ドラゴンズ(2002~2015)※2014、2015年は選手兼任監督 | 右投右打 | 捕手 | NPB 実働27シーズン 3021試合 8774打数 2108安打 229本塁打 1040打点 打率.240 | ベストナイン1回(1998)、ゴールデングラブ賞6回(1998年、2006年、2007年、2009年、2011年、2012年)、 特別賞(コミッショナー特別表彰)1回(2015)、功労賞(連盟特別表彰)1回(2015)、特別賞(連盟特別表彰)1回(2014) | 通算最多試合出場3021(日・セ記録)、捕手・通算最多試合出場2963(日・セ記録)、 捕手・シーズン最高守備率1.000(2009)(セ記録)、捕手・最多連続守備機会無失策(シーズン)1062(2006/4/4~10/15)(日・セ記録) | 中日ドラゴンズ監督(2014~2016) | |||
217 | 2024 | 競技者 | 黒田 博樹 | くろだ ひろき | 大阪府 | 日米通算200勝を挙げた広島のエース | 1996年ドラフト2位で広島に入団。2003年から5年連続で開幕投手を務めるなどエースとしてチームを牽引し、05年に最多勝、翌年には最優秀防御率を獲得した。08年にドジャースに移籍、12年からはヤンキースでプレー。安定してローテーションを守り、5年連続二桁勝利を記録するなど、MLB通算79勝をあげる。15年に広島へ復帰すると、16年には史上2人目となる日米通算200勝を達成。10勝をあげ、チームを25年ぶりのリーグ優勝に導いた。 | 1975年2月10日 | 上宮高、専修大 | 広島東洋カープ(1997~2007年)、ロサンゼルス・ドジャース(2008~2011年)、ニューヨーク・ヤンキース(2012~2014年)、広島東洋カープ(2015~2016年) | 右投右打 | 投手 | NPB 実働13シーズン 321試合 124勝105敗1セーブ 2021.2回 1461奪三振 防御率3.55 / MLB 実働7シーズン 212試合 79勝79敗 1319回 986奪三振 防御率3.45 | 最多勝利1回(2005)、最優秀防御率1回(2006) | 最優秀投手1回(2005)、ベストナイン1回(2005)、ゴールデングラブ賞1回(2005)、功労賞(コミッショナー特別表彰)1回(2016) | ||||
218 | 2024 | 特別 | 谷村 友一 | たにむら ともいち | アメリカ・ニューヨーク州 | アマチュア審判員を経てプロでも活躍した名審判 | 同志社大学で主将を務め、卒業後、一般企業に勤めながら1952年都市対抗野球大会に京都クラブの二塁手として出場した。その後、高校野球、大学野球、社会人野球の審判員として活躍。59年にセントラル・リーグの審判員となり、通算3026試合に出場。日本シリーズには11回出場した。プロ・アマ審判員の模範となり、現役を退いた後も後進の育成に尽力した。 | 1927年8月22日 | 2022年7月31日 | 同志社中学校(現 同志社高等学校)、同志社大学 | 京都クラブ(1952年) |